「今日は楽しかったよ、また―――来年な」

 会は終わった。一年の中で最も盛大で静かな祭りの日が。

 これから一年、また生きていくための力をもらう日が。

 東野駅に着くまでの電車の中で、頭の中に一つのもやの様な思考が俺の中に存在していた。いや、存在してしまったと言った方が正しいのかもしれない。

 永田駅で切符を買おうと財布を出したとき、ポケットに入れておいた緑石の指輪が転げ落ちた。慌ててそれを拾い上げて、石に傷がついていないか確かめる。幸い、石には傷がついていなかった。しかし、それを見つめているうちに

―――願っていたことで、叶わないことで、願ってはいけないことが、

 いつの間にか、心を支配していた。

 駅に着いた時には、歩みもおぼろげなほど弱く、階段を下りるスピードもゆっくりとしたものになっていた。

 ふと、ポケットから指輪を出してみる。

 見つめれば、見つめるほどに、吸い込まれそうな魅力があった。

「願いを、叶える、指輪…」

 心が揺れている。

 心が揺れていた。


 圭の墓の花を見るとひどく枯れていて、一年前に自分が供えた花のままであることがわかる。

 駅前で買った花を差し、水をかけて、目を閉じる。

「まあ、堅苦しいのはここまで。お弁当食べようぜ」

 カバンの中から弁当を取り出し、開けてみるといつもの圭の好きな食べ物が詰まった、特製の弁当だった。

「ほら、母さんの玉子焼きだぞ」

 語らぬ石に話しかけながらお弁当を食べる、これが8年前の俺が始めた誕生会の代わりの会。

 小学校一年生になる時に死んだ圭の夢だった、運動会のお弁当。母親が作りたかったお弁当。食べることができなかったお弁当。

 その願いをかなえる為の、大切な日が命の日だった。

「相変わらず食べるの早いな…」

 俺は小さな弁当箱に入った全てを残さず食べ、水筒に入ったお茶をゆっくりと口にした。


「昼食も摂ったし、俺の話聞いてくれるか?」

 俺は受験のこと、大学のこと、バイトをやめたこと、まだ彼女がいないこと、一年間に感じた全てを、圭の耳に向けて話した。

 自転車で10分かけて東野駅まで行き、東野駅から五つ行ったところにある永田駅で降りる。

 駅を出て少し歩いたところにある、花屋で圭が好きだった花を買う。


 8年前のあの時から始まったこの習慣は、8年前小学三年生だった自分が始めたことだ。


 永田町は昔、高葉家が住んでいた町で、圭が命を失った町だった。

 東野町に引っ越すことになったあの日、

 永田から東野まで五つの駅分、離れていることを知ったあの日、

 近くにある花屋に圭が好きな花が売っていたあの日、

 これから毎年、かかさずお見舞いに行くことを決めたあの日。


「昔の俺は偉かったな…」

 全ての意味を失いかけたあの日、『生と死』程の違いある命の意味を、与えてくれた過去の自分に心から感謝した。

 そんなことを考えていたらいつの間にか、 俺は圭の墓の前に着いていた。

 服装を正して、整髪して、いつもの歯磨きに掛ける時間の三倍歯を磨いて、自分の顔を鏡に映す。

「俺はデートに行くのか…」

 女性とデートにも行ったことのない奴が、親族の墓参りにここまでする必要があったのかはわからないが、なぜかそうしないと顔を合わせられない気がして、いつの間にかそういう流れができた。

「準備完了」

 鏡から眼を放すと同時に、机の上に置いてあった『緑石の指輪』が眼に入った。

「願いの叶う指輪、か…」

 昨日までの違和感、引っかかりの原因ではないかと疑われる指輪。普通の神経では信じられないような思考。しかし、信じられない出来事ならもう起きていた。

 辻褄が合わなくて、しかし辻褄が合っていて、それは矛盾しているけれど正しい感覚。

 しっかりとした根拠は無く、ただ落ちていたからという理由一つだけ。

「一応、持っていくか」

 前と同じように、財布と一緒にポケットに押し込み、一階に下りた。

 居間には一人分の弁当と水筒、それと花代と思われる千円札が一枚置かれていて、手持ちカバンに弁当と水筒を入れ、千円札を握り締めた。

ピ、ピピピ、ピピピピピ―――――

「まずい、遅刻するっ―――」

 寝具を吹き飛ばし、ジャージを脱ぎ捨て、慌てて制服を――――ってあれ?

 制服が掛けてあるはずの場所に、制服が無い…

ということは

「今日はまだ春休み……か?」

 カレンダーの日付を見ると、そこには春休み初日に朱入れした赤丸が燦然と輝いていた。

「じゃあ何で目覚ましを…」

 もう一度カレンダーの日付を凝視すると、今日が圭の命日だという事に気がついた。

「圭、一瞬忘れててゴメン…」

 両頬を軽くつねって眠気を覚ます。

 鏡の中の俺はひどくこっけいで、両頬をつねっているのに顔に笑み一つなかった。

 平和ボケとか、そういうのじゃないと思うけれど、一瞬でも忘れていた自分が嫌だった。

 今日は一年で一番大切な、命の日だ。