「こっちを向いて」と「を」の用法について | ボラとも先生のブログ

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このブログは日本語ボランティアを始めた人、やっている人が疑問に感じたこと(特に文法など)について説明するために作りました。

ボラQ178:先日、みんなで近くの公園に散歩に行って写真を撮りました。そのときに私が言った「はい、こっちを向いて。」ということばについて後で質問されました。「こっち」は「こちら」のくだけた言い方だということは知っているけれど、どうして方向を表すのに「へ」や「に」ではなく、「を」を使うのかという質問でした。よろしくお願いします。

 

ボラとも先生A178:「向く」という動詞には正面を別の方向に変えるという〈動作〉を表す意味のほかに、正面がどの方向に向いているのかという〈状態〉を表す意味があります。

 

〈動作〉を表す場合は「…を向く」を使い(①)、〈状態〉を表す場合は「…に向く」や「…へ向く」を使う(②)、というのが基本的な使い方だと考えられます(以下では、「…に向く」「…へ向く」も同じ意味と考え、「…へ向く」は省略します。また、区別が重要な場合は、「」は赤、「」は青で表します)。

 

①A)(〇)「こっち向いてください」〈動作〉

B)(〇)「上向いて歩こう」〈動作〉

②A)(〇)「南向いている窓を開け、…」(「魅せられて」)〈状態〉

B)(〇)「北方領土向いた社殿」(北海道神宮の説明)〈状態〉

 

上の説明で「…向く」は〈動作〉を表し、「…向く」は〈状態〉を表すと説明しましたが、『日本語の類意表現』(森田良行、創拓社、1988)の第845「東を向く」か「東に向く」かp.356-p.362では、「…向く」〈部分動作〉、「…向く」を全体動作〉として説明しています。

 

そこでは、「…向く」を「…を+自動詞」として分析し、「道を歩く」「門を出る」「席を立つ」のように、移動の<経路><経由点›や<起点›表す場合と、「地球は太陽を回る」「赤道を越える」「トップを走る」「百人を上回る申込者」のように、運動や状態変化の<基準›を表す2つの場合があることを紹介しています。

 

そして、「…向く」は後者の場合であり、「を」は<基準›を表し、「向く」という動作を規定する要素として方向性を添えていることから、その方向へと位置や姿勢を変える動作意識がある。そのため、「…向く」がその物自体の方向性を表すのに対して、「…向く」はその物の部分だけが特定の方向へと動くという説明です。

 

上の説明は少し複雑ですから、いくつか確認をしながら見ていきたいと思います。

 

確認したいのは、まず、「向く」を自動詞として分析している点です。次に、「を」の用法を移動の場合と運動や状態変化の場合の2つに限定している点です。最後に、「…向く」と「…向く」の意味の違いを〈部分動作〉と〈全体動作〉の違いだとして、〈動作性〉や〈状態性〉の違いはそこから出てくる副次的な違いだと説明している点です。

 

最初の確認点ですが、「向く」が自動詞であるということは自明のことではありません。おそらく「向ける」という他動詞があり、「開(あ)く・開(あ)ける」という自他の対応パターンに当てはまることから、「向く」を自動詞だと考えたのだろうと思われますが、「向く」には「向かう」という自動詞もあるのです。

 

「向かう」は、「向く」の未然形(「向か」)に古語の助動詞「ふ」が付いたものです。この「ふ」は「…し続ける」(継続)や「繰り返し…する」(反復)という意味を表すため、「向き続ける」「繰り返し向く」という意味から「…に対して正面を向く」「…に向かって進む」という意味を表すようになったと考えられます。

 

古語辞典で調べてみると、平安時代の「向く」には自動詞と他動詞の2つの用法があったようです。そのために、現在の「向く」の自他の対応に関しては「向く向ける」と「向かう⇔向く」という2種類が考えられるようになった可能性があります。つまり、「…向く」は他動詞の「向く」であり、「…向く」は自動詞の「向く」ではないか、というのが私の考えです。

 

なぜこのように考えるのかというと、写真を取るような場合、「こっち向いて」は「こっち見て」とほとんど同じような意味で使っていると考えられるため(英語ではLook this way.)、「こっち向いて」がおかしいのは「こっち見て」がおかしいのと同じ理由ではないかと考えたからです。

 

つまり、「こっち向く」は他動詞の「見る」と同じように目的語として〈方向〉を取るのではないかと考え、さらに、「見る」の自動詞「見える」も、(方向の違いはあるけれど)「南見える」と「向く」という状態を表す自動詞として「向く」に対応するのではないかと考えたわけです。

 

ちなみに、こう考えるのは私だけではありません。『明鏡国語辞典』(初版、2002年)の「向く」の項では、むしろ「向く」の意味として最初に他動詞の用法を挙げ、【語法】の中で自動詞としても使われることを補足的に説明しています。

 

次に、二番目の確認点ですが、「を」の意味用法は2つだけではありません。以前の記事(No.160)で「を」の用法について『明鏡国語辞典』の説明を少し引用しましたが、この辞典には「を」の意味用法について詳しい説明があり、全部で20種類以上の意味用法を解説しています。

 

この解説を読むと、「を」の用法を2つに限定して説明することは問題だということがすぐわかりますが、『日本語の類意表現』は『明鏡国語辞典』14年前に出版されたものですから、しかたがないことかもしれません。

 

以下に簡単なまとめを書いておきますが、文法に関心のある人はぜひご覧ください(訂正:必ずお読みください)。特に例文と【語法】の解説が面白くて役に立ちます。

 

そこでは、「を」の用法をまず、大きく❶「…+他動詞」と❷「…+自動詞」に分け、❶では㋐から㋝までの14種類の意味用法に分類しています。

 

「…を+他動詞」の中には、働きかけを受ける物事を表す〈対象目的語〉、道具や手段を表す〈道具目的語〉、場所を表す〈場所目的語〉、結果を表す〈結果目的語〉、立場や役割を表す〈役割目的語〉、動詞と同じ意味を表す〈同族目的語〉などについての解説と豊富な用例が挙げられています。

 

この中にとして次の説明があります。

 

㋙動作・作用の向かう先や方向を対象として示す。「この家は南を向いている」「勝利を目指す」「磁針が北西を指す」「『山』という語が『山』という対象物を指示する」

 

ここでは、「向く」を他動詞に分類しているため、「…向く」の説明だけで「…向く」の説明はありません。そこで同じ辞典で「向く」を調べてみると、【語法】として次のような説明がありました。

 

【語法】上の方//へ向く」「私の家は南を//へ向いて建っている」のように①②ともに「~へ向く」「~に向く」の形で自動詞としても使う。

 

この説明では、①が「…向く」で、その方向に顔や体の正面が位置するようにする、②が「…向く」で、物(の先端)がその方向を指し示す、という違いだという説明です。つまり、①は〈動作〉、②は〈状態〉を表すということです。

 

さらに、❷「…+自動詞」では㋐から㋖までの7種類の意味用法が区別されていますが、最初の『日本語の類意表現』で説明されていた「を」の意味用法はすべてここに含まれています。

 

さて、最後の確認点ですが、『日本語の類意表現』では「…向く」と「…向く」の違いについて〈部分動作〉と〈全体動作〉という意味の違いから〈動作性〉〈状態性〉という性質が生じると説明しています(pp.358-9)。

 

もちろん、「こっち向く」や「上向く」のような場合は、体全体の向きを変えるのではなく、顔や首という〈部分〉の向きだけを変えることが多く、「南向いている窓」や「北方領土向いた社殿」のような場合は、「窓」や「社殿」が〈全体〉としての向きを表しているのは確かだと思います。

 

しかし、私はこの説明は論点がずれているような気がします。私の考えでは、〈部分動作〉〈全体動作〉という意味の違いは、「…向く」が他動詞で〈動作〉を表し、「…向く」が自動詞で〈状態〉を表すという違いから出てくるものだろうと思われます。

 

つまり、「こっち向く」「上向く」は人間の〈動作〉ですから、「こっち向く」ためには体全体の方向を変えることもありますし、頭や顔の向きだけを向けることもあるのですが、「上向く」ためには体全体の方向を変える必要はほとんどないのです。

 

それに対して、「窓」や「社殿」は建具や建造物ですから、その正面がどの方向に面しているかという〈状態〉を表そうとすれば、当然そうした建具や建造物を〈全体〉として表す必要があるからです。