「感動ポルノ」の意味について | ボラとも先生のブログ

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このブログは日本語ボランティアを始めた人、やっている人が疑問に感じたこと(特に文法など)について説明するために作りました。

ボラQ150:先日、テレビ番組で話題になった「感動ポルノ」について学習者と話し合ったときに、なぜ「感動のポルノ」とか「感動的なポルノ」と言わないかと質問されました。確かに「感動ポルノ」というのは耳慣れない表現なので、少しおかしいなと思うのですが、なぜこんな表現を使うのでしょうか。


ボラとも先生A150:私も日本テレビの『24時間テレビ「愛が世界を救う」』の裏番組のEテレビの「バリバラ(バリアフリー・バラエティ)」で初めてそういう言葉があるのを知りました。


http://www.j-cast.com/2016/08/28276254.html


その番組内で放送された以下の動画で、「感動ポルノ」という表現はオーストラリア人の障害者のステラ・ヤング(Stella Young)さんの造語「inspiration porn」を翻訳したものだと説明されています。


http://logmi.jp/34434


彼女の説明によると、「障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしている」、つまり、健常者に感動を与えるために障害者を物として利用している、ということを言うために使ったようです。


しかし、そういう内容を表現するのであれば、「感動ドキュメンタリー」とか「感動ストーリー」というような表現を使えばいいのではないかと思われますが、おそらくステラさんは「ポルノ」という存在が持っている社会的に根深い差別性を強調するために作り出したのだと思います。


また、「ポルノ」(pornography)という言葉は語源的には「売春婦」というギリシャ語で、「性的興奮を起こさせることを目的としたエロチックな行為を表現したもの」(Wikipedia)と言われていますが、社会的な「悪」として非常にネガティブな存在の代表として格好の表現だったからでしょう。


ではなぜ子供をポルノの対象にした「児童ポルノ」のように「障害者ポルノ」という表現にしなかったのでしょうか。一つには、「障害者ポルノ」という表現では「障害者が俳優として出演している(通常の性的な)ポルノ」または「障害者が視聴するためのポルノ」という意味に取られてしまう可能性があるからでしょうが、おそらくあまりインパクトがなかったからだと考えられます。


一般的に言うと、2つの名詞AとBを結び付けた≪複合名詞≫「AB」の意味は、「AのB」という意味になります。たとえば、「日本語教育」は「日本語の教育」という意味になりますから、「感動ポルノ」は「感動のポルノ」という意味になるはずですが、初めてこの言葉を聞いた人はおそらく≪感動≫を与える内容のポルノという意味だろうと推測すると思われます。


その理由を考えてみると、「日本語の教育」は「日本語を教える教育」という意味になると考えられますが、それは「英語教育」や「ドイツ語教育」や「外国語教育」などの複合名詞がすべて「~語を教える教育」という意味になることと同じように、「感動ドキュメンタリー」や「感動ストーリー」という複合名詞が「感動を与える~」という意味を持っているからです。


ところが「ポルノ」の場合は、ネットで調べた限り、複合名詞としては「児童ポルノ」「復讐ポルノ」「リベンジ・ポルノ」「ロマンポルノ」「ハードコア・ポルノ」「フードポルノ」の6語しかありませんでした。日本語では「ポルノ」の代わりに「アダルト」や「エロ」などが使われているからだと考えられます。


そこで「ポルノ」の複合名詞の意味を詳しく調べてみると、「児童ポルノ」は児童を≪性の対象≫としたポルノ、「復讐ポルノ」「リベンジ・ポルノ」は復讐という≪内容≫を扱ったポルノ、「ロマンポルノ」「ハードコア・ポルノ」は性的描写の≪過激さ≫による種類、「フードポルノ」は性欲の≪比喩≫としてFacebookやInstagramなどのソーシャルメディアに投稿された「食欲をそそる」画像や記事のことだそうです。


「感動ポルノ」という言葉が最初はその意味を理解しにくいのは、おそらく「性欲」の比喩として想像しにくい「感動」という言葉を使ったことにあるからだと考えられますが、それよりも今回の反響の大きさは、「感動」という非常に高貴でポジティブな言葉と「ポルノ」という反社会的でネガティブな言葉の結び付きによる意外性によるものだと思われます。


最後に一言。「感動ポルノ」であることがわかっているのに、なぜ障害者あるいはその家族はそういう番組に出演するのかという疑問を持っている人もいるようですが、上記の「バリバラ」の障害者の出演者もほぼ全員が出演してみたいと言っていたのが印象的でした。


理由はそれぞれ違っているようでしたが、確かに障害者も普通にテレビに出たり、普通にお客の接待をしたりすることができるような環境と認識のある会社会になったらいいなと私も思います。以前はほとんど見られなかった女性の車掌や女性の知事や大臣、さらには女性の大統領が普通に見られるようになっている現在のように…。


そのためには、社会的に大きな影響力を持っているテレビ番組関係者(特に上層部)は、視聴者に常識やステレオタイプを押し付けるのではなく、そうしたものに常に疑問を抱き、よりよい社会を作っていこうという使命感や信念を持つ必要があるのではないかと思います。


たとえば、「ポルノ」に関して以下のサイトの記事や意見や問題点を提起してみたらどうでしょうか。


①ピュリツァー賞の写真を「児童ポルノ」として削除 Facebookが検閲撤回へ

http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/10/kiddie-porn_n_11946664.html


②ジェンダー研究家が語る「私がポルノを見るのをやめた理由」

http://logmi.jp/18704


ちなみに、≪障害≫の定義として≪医学モデル≫と≪社会モデル≫という2つのモデルがありますが、ステラ・ヤングさんは、社会モデルを支持する障害者、つまり、「障害は社会の側にある」という主張をしていました。