心は落ち着いている。
こんな状況なのに、なぜか、不思議なくらいに落ち着いている。
やはり、そのときの現実の深刻さとそのときの精神状態というのは、あまり対応関係にないらしい。
精神的に不安定になるのは、あれはただのバイオリズムだ。
まぁ、拷問的なことで強制的に不安定状態に陥れられたときとかには、話は別になるんだろうけれど…。
ブログを書くのが久しぶり過ぎて、何からどういうふうに書けばいいのか分からなくて、戸惑っている。
さっきまで論文の文章書いてたから、こうしてブログで雑多な文章を書いていると、なんとなく気持ちわるい感じがする。
今の気持ちをあえて一言で表すなら、消えてしまいたいという言葉に尽きる。
これは、心配されたくて言っているのではない。
むしろ、今だけは、誰からも関心をもたれたくない。
誰とも話したくないし、みんな私に無関心であってほしい。
そうしたら、安心して消えることができるから。
もちろん、本当に消えることなんてできないから、ただ過ぎていく時間をこの落ち着いた心持ちでやり過ごすだけなのだけれど。
森鴎外の『舞姫』で、エリスに子どもを孕ませておきながら日本へ帰る太田豊太郎の気持ちは、きっと、こんな感じなんだろう。
豊太郎サイテーという女子高生的反応も分かるけれど、女の子が男性中心主義社会のなかで構造的暴力によって抑圧を受けているとしたら、男の子は、「身体」的に疎外された存在として生きる宿命を本質的に背負わされていると思う。
はぁ…。
そういえば、今まであんまり意識的に考えてもこなかったけれど、私は、「哲学オタク」の部類に入るのだろうか。
いや、入るのだろうなぁ…。
要は、めんどくさいのだ。
もっと、屈託なくしていられればいいのだけれど。
身体論的に不可能なのだ。
ほら、こうやって。
もうすでに、言語が、哲学的に構成されてしまっているのだ。
もはや、思考が一体なのだ。
哲学者は、傾倒する哲学に喰われてはじめて哲学者になる。
その哲学に心酔するのだ。
酔いしれて喰われるのだ。
そうだ。
仮面ライダー龍騎がモンスターに喰われてライダーになるみたいな。
ああいう感じだ。
きっと、私のファイナルベントは、ニーチェに毒されたポストモダン的色彩を帯びているに違いない。
あぁ、このセンチメンタルな心情をもポストモダン的嘲笑が破壊していく。
だから、心は落ち着いている。
今日は、落ち着いている。
おわり。