先日、Twitterで、『猫の恩返し』のハルちゃんの恋愛観に共感するという趣旨のことを呟いたところ、思いもよらず反響があったので、改めて、観直してみて、書評を書くことにした。

私なりに分析してみると、『猫の恩返し』の最大のテーマは、「自分の時間を生きる」ことにある。

これは、「自律」的に生きるという、まさに、カントが『道徳形而上学の基礎づけ』で取り上げたテーマである。

『猫の恩返し』の興味深いところは、「自律」的に生きるという課題が、猫の世界から現実世界に戻るという映画の主題と、現実世界の背景としてあるハルの生活課題の双方でパラレルに解決していくという点にあるとみてとれる。

『猫の恩返し』における「猫の国」は、理想的な環境ではあるが、感性的な居心地の良さがあるが故に、個人が「自律」的に「自分の時間を生きる」ことができない世界として描かれている。

もともと、「自律」的な自己を確立できず、なんとなくクラスの人気者である町田くんに好意を抱き、意志もフラついていて、「猫の国」に招待されれば、喜んでついて行きたくなってしまうハルは、カントに言わせると「他律」的な存在である。

そんなハルは、「猫の国」に入り、はじめは、呑気にも胸踊る思いでいた。

それが、だんだんと、「猫の国」のなかで、自分の体がネコ化していくにつれて、人間として、「自分」を生きることの大切さに気付いてゆく(この感じ、図らずも、『ザ・フライ』と同じ構造ですね…笑)。

バロンやムタさんと出会い、ともに、「猫の国」の「他律」的世界を克服し、脱出を試みる経験を通して、ハルが、「自律」的な「自分」を獲得していく。

この映画の主題は、このような点にあるように思われる。

しかし、「他律」的な世界での経験は、ハルには、ネガティブなものとして受け止められているわけではなく、そこには、あくまでも、「自律」的な「自分」を獲得するまでの過程として、積極的な意味が付与されている。

こうして、「自律」的な「自分」を獲得したハルは、現実世界に戻ってくると、朝早くから計画的に行動し、クラスの人気者の町田くんの話題にも食いつくことなく、「自分の時間を生きる」ようになるのである。

町田くんが年下の彼女と別れたという話を聞いても、「そんなことはもういいの」と言って、凛とした姿勢を貫くシーンは、まさに、ハルの恋愛観の成熟した姿としてとらえられる。

しかし、ハルの「自律」が、不完全な「自律」であり、その「自律」的な恋愛観が、ルソー的ロマン主義によって彩られているという点に、この映画のさらなる深みがある。

町田くんへの興味が失われたことは、当然、バロンへの憧れと大いに関係がある。

しかし、バロンへの憧れをみても、そこには、伯爵の貴族的振る舞いやバロンの醸し出す雰囲気への憧憬があり、結局は、町田くんに好意を抱いた、ある意味フラついた恋愛と大きく変わりはないのではないかとも思える。

とはいえ、町田くんへの憧れとバロンへの憧れの大きく異なる点は、町田くんという周囲から羨望のまなざしを向けられる存在へ憧れることから、自分が直接に憧れることへと変わったことである。

その意味で、不完全な「自律」性でありながらも、そこに一歩踏み出したことは、ハルにとっての大きな前進なのである。

最後に、その恋愛観のルソー的ロマン主義の性質についてであるが、ハルの恋愛観は、「自律」性を獲得したといえども、その中身は、実に、ロマン主義的である。

ハルは、ロマン主義的な動機から「猫の国」に憧れたのと同様なメカニズムで、バロンに憧れを抱いている。

つまり、町田くんへの興味を失ったことには、バロンの存在が大きく関わっているが、バロンという現実の世界からは一歩離れた世界にいる存在への憧れを強くもつことによって、現実のフラついた恋愛への関心から解放されているといえる。

ロマン主義的な恋愛観が、果たして本当にカントのいうところの「自律」に合致するのかといえば、必ずしもそうではない。

むしろ、そのロマン主義的性質こそが、「猫の国」と同様に、「他律」的であるようにみてとれるのである。

しかし、ルソー的ロマン主義の観念的ユートピアは、たしかに魅力的である。

私も、ルソー的ロマン主義の恋愛観には、かなり、共感する部分がある。

それは、プラトンが洞窟のたとえで語ったような、「現実にとらわれた私」から、形而上学的世界への躍進である。

ここに、弁証法的なハルの成長がみられるのである。

この「現実」にとらわれずに、形而上学的世界観を尊重するハルの恋愛観が最後にそっと提示されるところに、心動かされるのである。

しかし、ニーチェに言わせれば、まさに、そのような恋愛観は、「彼岸的」であって、現実を直視していない弱者の恋愛観である。

そうしたロマン主義的な現実から遊離した「美しい」恋愛観は、現実主義的な観点からは、必ずしも肯定できるものではない。

しかし、恋愛とは、「彼岸的」であればあるほど美しいのであって、そもそも、恋愛というものそのものが、形而上学なのである。

その意味で、ハルのルソー的ロマン主義の恋愛観は、美しく、バロンへの憧れは、尊重されるべきなのである。

たしかに、バロンへの憧れを抱き続けて、ルソー的ロマン主義に浸っていては、現実の恋愛はできない。

その意味で、どこかで現実的な恋愛観は必要となる。

しかし、たとえそうであったとしても、ルソー的ロマン主義に支えられた「彼岸的」な恋愛観を心のどこかに持ち続けながら生きていくという「美しさ」へのこだわりは、人間らしく情緒豊かに生きるうえで、とても大切なものなのではないかと、私には思えてならないのである。

おわり。




N氏に勧められて、『ザ・フライ』という古典映画を観たのだが、なかなか衝撃的だったので、書評をば…。

てか、修論中間発表レジュメ提出期に何やってんだおれ…。

でも、観てすぐ書かないと忘れるから。


あらすじはすっ飛ばして書こうと思う。

あらすじは、観れば分かるし、Wikipediaにも載ってる。

大事なのは、この映画の本質をどうとらえるかだ。


この映画のテーマは、私なりに解釈すれば、三つぐらいの大きなテーマが盛り込まれている。


・科学技術による人間的疎外
・恋愛のはかなさと愚かさと美しさ
・人間的理性の意味の問い直し


第一にあげた点が、この映画の根幹を貫いている。

しかし、私が注目する点は、セスの生み出したテレポーテーション・マシーンが、セスをハエ人間にしてしまった悲劇が、科学技術による人間的疎外であるというだけでなく、そもそも、ハエ人間になる前のセスが、科学技術によって、人間的に疎外された存在だったのではないかという点である。

服を選ぶのに悩まなくて済むように同じ服を5着揃えていたり、セックス中にアイディアが思い浮かんで突然実験を始めたりといった姿勢は、そもそも、カントのいうところの目的としての人間の性質を喪失している。

科学者セスは、そもそも、科学的発明が目的となり、自己の生活が手段となってしまった疎外された存在であったのである。

第二の点は、様々なシーンにみられるが、そもそも、セスがハエ人間になってしまったのは、嫉妬による酩酊が原因だった。

しかも、ヴェロニカは、元彼と決着をつけるためにセスのもとを離れたにもかかわらず、それをセスは、元彼とセックスしに行ってしまったと勘違いして酒浸りになったのだ。

ヴェロニカが、セスに用件を秘密にしなければ、セスが疑わなければ、そして、自暴自棄になって酒に走らなければ、酒に走っても、ヴェロニカに自慢してやるために自分がマシーンに入らなければ…悲劇は起こらなかったのである。

こうした悲劇発生の前提条件は、全て、恋愛のはかなさに起因している。

ところで、この恋愛のはかなさとコントラストをなすようにして描かれているのが、ステイシスの恋愛観である。

縁を切られたはずの彼女の家に勝手に入り込んだり、彼女との口論で下ネタを連発したり、セックスだけでもやらせてくれとせがんだり、このステイシスの姑息な恋愛観は、セスの純粋な恋愛観とコントラストをなすことで、その愚かさが浮き彫りに描かれている。

しかし、冷静な目で分析するなら、恋人に未練をもった男の行動というのは、案外、ステイシスの行動と大差ないものなのではないかと思えてくる。

実際、セスがハエ人間になってしまって以降、ステイシスは、自然な流れでヴェロニカを紳士的に支える役に徹しており、ヴェロニカの拒絶反応がなければ、あながち、ステイシスの行動は自然なのである。

しかし、愚かにみえる行動が実は自然ということは、裏をかえせば、自然な恋愛的態度というのが、その恋愛が成立しないときにいかに愚かなものであるかということだ。

そして、ステイシスの行動の愚かさは、同時に、セスの恋愛観の美しさを演出している。

人間には、純粋無垢なものへの羨望が本質的に備わっている。

まさに、カントの哲学において行われた仕事は、「純粋なるもの」へのあくなき探求とその限界設定であった。

セスの恋愛観の美しさも、その無垢な純粋性の美からきている。

打算的なステイシスの姿勢に比べて、素朴に愛するというセスの姿勢は、美しい。

その純粋な恋愛観の美しさへの共感こそが、最後にハエ人間とテレポーテーション・マシーンの融合体となったセスがヴェロニカのもつ銃の銃口を自分の頭に向けるこの映画の最も胸を打つシーンが感動を誘う第一要因となっているのである。

しかし、この最後のシーンが心を揺さぶるのは、それだけではない。

第三の点が、それには関係している。

この映画の人間がどんどんハエ化していくという設定は、人間的理性がだんだんに失われていく様子を描くことで、反対に、人間的理性の意味の問い直しを迫っているようにみてとれる。

最後のシーンが感動的なのは、セスの恋愛観への共感もさることながら、科学技術に完全に侵食されたセスが、最後に人間的理性の断片を垣間見せたという点にもあるように思える。

人間には、人間的理性への愛があり、セスがもともと人間として備えもっていた愛すべき人間的理性の最後の表出があのシーンで表現されているからこそ、そこには感動が生まれるのではないかということである。

ここに、人間的理性の意味の問い直しを迫るという意図が隠されているのである。


こうした点が、この映画のみどころだったのではないかと、以上が、私なりの『ザ・フライ』の分析である。

あー結局、最後まで書いてしまった…。

アホだ…おれ。

終わり。