カントは、『道徳形而上学の基礎づけ』で、「善意志」は無制限に善いといい、「善意志」によって己に課せられるのが「義務」であるという。

だから、己の「義務」に従って生きる生き方が善い生き方であって、そのために守られるべきなのが「自律」であるという。



現代のロールズから始まる政治哲学の論者の多くが基盤として掲げるカントの道徳論の根本的な原理は、このように、「理性的」な人間のもつ「善意志」の絶対性を基礎としている。

しかし、カントが「『善意志』は無制限に善い」というとき、私には、二つの疑問が浮かぶ。



ひとつは、そもそも「善意志」とは本当にあるのか、という疑問である。

しかし、この疑問に対しては、『道徳形而上学の基礎づけ』のなかですでに答えられている。

カントの生きた時代にも、おそらく、邪な人間や嘘をつく人間、人を騙そうとする人間がいたのだろう。

「でも、人間はみんな善意志をもっているはずなのに、どうして世の中には、こんなに悪行をする人がいるんだい?」という質問に対する答えをカントはきちんと用意している。

その答えはこうだ。

間違いなく、人間は「善意志」をもっている。

しかし、同時に人間は、欲望などに突き動かされる「傾向性」をもっている。

そして、「善意志」とは、ときに弱く脆いものだから、「傾向性」に負けてしまうことがある。

つまり、「善意志」は、「ない」のではなくて、「ある」が、「守れない」ことがあるというのだ。



ふたつめは、「善意志」は、果たして本当に無制限に善いのか、という疑問である。

もし、「善意志」に従った行為が無制限に善いのであれば、「誰にとっても善い行為」という行為が成立するはずである。

しかし、私にとっては善い行為でも、相手にとっては善くない行為というものは存在する。

人間が別個性を持つ存在である以上、種としての同一性をもちながらも、多元的な価値観が不可避的に乱立するのは避けられない。

それを防ごうとするなら、人間の自由な本質を強制的に削ぎ落とすことになる。

アナキストにとっても、リベラリストにとっても共通する人間の本質は、自由な人間の「解釈可能性」と「統一的自我」の存在である。

つまり、人間は、環境に影響されながらも、その基準をもとに、自由に物事を考え、自由に自分の身体を動かす「統覚」を持っていて、それが尊重される「自由」は、近代の「自由主義」論によれば、「自然権」として人間のもつ当然に尊重されるべき「権利」なのである。

そうすると、寛容の成立する範囲内での「自由」は、「多様性」の名の下に尊重されなければならない。

ところが、この「多様性」を認めると、「善」の多元的価値乱立の扉が開き、「誰にとっても善い行為」という定義は成立しなくなる。

それは、難しく考えずに、日常の具体的な例を考えてみれば分かる。

たとえば、Aが、ある課題Xをこなすときに、一人でやりきることが重要であり、周囲からの干渉を受けないことを望んでいるときには、それを横で見ているBの行為として善い行為は、「何もしないこと」である。

ところが、単純にAは、課題Xをこなせなくて、誰かに助けてもらいたいと考えているのなら、Bの行為として善い行為は、「Aの手助けをすること」である。



しかし、善意志が無制限に善いのであれば、よかれと思って「Aを手助けすること」が、絶対的に善いことであることになる。

たとえ、Aが不干渉を望んでいたとしてもだ。

そのようなAの状況や心情はどうでもよくて、ただ、Bがどのような意志で行為したかが重要ということになる。

Bにとっては、面倒くさくて、見て見ぬフリをしたことが、不干渉を望んでいたAにとって結果的に善い行為になったとしても、Bは、手助けすることが善いと思いながらも見て見ぬフリをしたのだから、それは、「善意志」に背いた善くない行為になるのだ。



だから、私は、「『善意志』は無制限に善い」という命題は、偽であるように思う。

こうしたカントの「善意志」の問題は、どのようにして解けるのだろうか。

今度、S先生に聞いてみよう。

おわり。

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やはり、理解が浅いものを書こうとすると、言葉の使い方が雑になるな。

特に、「つまり」の接続。

概念の整理がつかず、うまく説明できなくなると、「つまり」が使えない場面なのに、無理矢理「つまり」でつないで強引に論をもっていきがち。

まだまだ修行が足らんです。



さぁ、そろそろ寝なければ…。

おわり。

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『論考』というのは、『論理哲学論考』の略です。



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