「語り得ぬものについては沈黙せねばならぬ」

これは、井上達夫も『他者への自由』の冒頭で使ったウィトゲンシュタインの『論考』の有名な一文だ。

永井均によれば、ウィトゲンシュタインのいう「語り得ぬもの」には、二つのものがある。

それは、先験的なものと超越論的なものだ。

永井によれば、先験的なものとは、世界の「論理形式」のことで、超越論的なものとは、道徳的善のことである。

この二つを「世界」に統一し、現存在を成り立たせるのが、「私(実存的人間)」なのであるという。



ウィトゲンシュタインは、フッサールと同様、あえて、近代のデカルト的独我論からはじめる。

つまり、世界は、実在としてあるのではなく、観念の世界の解釈こそが世界であるという前提から議論をはじめるのである。


しかし、デカルトとウィトゲンシュタインが異なるのは、デカルトが、超越論的な世界認識の媒体としてのコギトを疑い得ぬものとして立て、コギトの認識するものを世界としたのに対して、ウィトゲンシュタインは、先験的なものと超越論的なものを統一する点を世界ととらえたことである。

つまり、論理形式と道徳的善が、「私」を媒体にすることで初めて世界は成り立つのである。

だから、世界というのは、それぞれの「私」の中に成立しており、ウィトゲンシュタインにいわせてみれば、「私」と「他者」は、「別の世界の住人」なのである。

「別の世界の住人」が、シンパシー(共感)を感じることができるのは、類推の能力を働かせるからである。

しかし、ここで、異なる身体の構造をもつ男と女という生物が、どのようにして肉体の快楽の感覚を共有できるのかという問題が浮上する。

まずは、自分の身体の快楽から相手の快楽を類推するという手法が考えられる。

続いては、言語によって理解し、自分の感覚をもとに類推するということが考えられる。

しかし、本質的に、快楽を共有することはできない。

さらに、快楽の根源的源泉は何かという問題があるが、愛を根源と考えると、愛とは、超越論的領域の言語であり、「語り得ぬもの」である。

つまり、ウィトゲンシュタイン的に考えれば、セックスで本来的に知覚するこのができるのは、自分の快楽以外にないのである。

それが、超越論的な愛の次元と先験的な論理形式との統一によって、独我論的な「私」の世界から抜け出し、世界に意味が付与され、それによって、「私」の行為から、「私」と「他者」の統一的な行為となるのである。

しかし、果たして、その意味づけは、「私」性を脱却できているのだろうか。

「私の愛」と「あなたの愛」は、文法的に独立した命題である。先験的な論理形式である文法を本質とみるウィトゲンシュタイン的立場からすれば、独立した命題である「私の愛」と「あなたの愛」に統一可能性はないように思われる。

つまり、セックスには、ウィトゲンシュタイン的問題(=突き詰めていけば、独我論的な共感性しか生まれ得ないという問題)が潜んでいるのである。


では、そうしたウィトゲンシュタイン的問題は、どのようにして乗り越えることができるだろうか。

後期のウィトゲンシュタインによれば、世界は、言語ゲームによって成立している。

つまり、つまづきを与えるのも言語なら、克服するのも言語なのである。

おそらく、ケアの倫理でいうところの「対話」によって現れる「無限性」の概念が、解決を与えてくれるのだろう。

…が、そこらへんは、私の勉強不足。

ということで、今日は、これにて終了!

とりあえず、分からないなりにも、ウィトゲンシュタインについて少し書いてみた。

いつかは、日本語訳でいいから、ウィトゲンシュタインが書いたものを読みたいなぁ。

修論が一段落したら、読んでみよう。

おわり。

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人って、何かに気づくと、人に話したくなるものですね。

永井均の『ウィトゲンシュタイン入門』を読んでいて、私はふと思ったのだよ。

セックスには、ウィトゲンシュタイン的問題が内在している…と!!!

で、この発見を今すぐにでも誰かとシェアしたくて。

SNSでつぶやこうとしたのだけれど。

さすがに、何の脈絡もなくこんなこと言ったら、不審に思われますよ。

やはり、TPOというものをわきまえねば。

そういう意味では、ツイッターとかミクシィとかって、怖いね。

顔見て話してれば、文脈とかタイミングとかで、発して良い言葉とそうでない言葉が、ある程度自然に分別つくけど、ネットを媒体にしてしまうと、脱文脈化した言葉が裸のまま顔を出すから、そこに齟齬が生じてしまう。

おそらく、仲正昌樹が『ネット時代の反論術』で言わんとしていたことも、きっと、この問題を言っていたのだろう。

最近は、なんだかそういうのなかったから、久々にこの感じが出て来て、この感覚自体に懐かしさを感じた(笑)

おわり。

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私にとっての「青春の思い出ソング」のひとつに、スガシカオの『斜陽』という曲がある。

今日は、久々のブログだが、この曲のことについて自分に引きつけながら書いてみようと思う。

この曲の描こうとしているテーマの核心は、サビの二つの歌詞にある。



君の言葉のひとつひとつ 思い出して集めても
僕じゃたぶん見つけられない
君の何もかも 引き受けるつもりでいた
そんなこと出来もしないくせに…



1番サビと終サビのこのサビが、「理想的」な恋愛に走ろうとする自分に対する現実からのアイロニカルな反省を示している。

当時、安易な「ラブソング」の胡散臭さを嫌って異様に反発していた「若かった」自分にとっては、この「君の何もかも 引き受けるつもりでいた
そんなこと出来もしないくせに…」という歌詞が、強く心に響いた。

しかし、この曲の魅力は、単なる現実主義的なアイロニーで終わっていない点にある。

それが現れているのが、2番サビである。



ぼくが世界でただひとり 君を救えると思った
ばからしいって笑われても
ぼくらの思いだけは きっと永遠だと言った
それだけは信じていたんだ…



この歌詞からは、自分の内面に顔を出す現実主義的な自分を認識しつつも、純粋な自分の愛への一抹の期待を抱く自分を肯定し、一定の評価を与えようとする積極的な側面が読み取れる。

2番のAメロで、



守れない約束でぼくらは傷ついていった
君のことで消耗していく自分が嫌いじゃなかった
ぼくのやさしさってきっと君のためじゃなく
悲劇のヒーロー気取った見せかけの腐った心



という気づきがあるにもかかわらずだ。

つまり、この曲のストーリーは、1番Aメロの、



鈍い黄色の夕日が染めた公団の向かい
ブランコさえない公園でぼくらははじめてキスした
もうぼくら以外のこと ほんとにどうでもよくて
ぼくが描いた自分はただ君のためにあった
ぼくにだってそれくらいはできると思ってたんだ
君のこと苦しめる寂しさのひとつくらい
ぼくが側にいて君を抱きしめればいい
“そう、きっとうまくいく…”ってマヌケなぼくは言った



という歌詞に表現されているように、「理想的」な恋愛観に浸っていたが、それが楽観的だったと、「マヌケなぼく」に気づくことからはじまり、1番サビにあるような、その「ぼく」をアイロニカルに批判する自分が現れ、2番Aメロで、その「ぼく」の現実に対する内省が行われ、それでも、2番サビでは、その中にあった純粋な愛を貫こうとする自分への期待が、アイロニカルな歌詞の中に顔を出す。しかし、最終的には、「君の何もかも 引き受けるつもりでいた
そんなこと出来もしないくせに…」という現実に回収される。

そういった構成になっている。


“恋愛モードオフ”の状態や、安定してしまった状態では、この心境はなかなか共感し共有できないが、高校生の私には、「ぼくが世界でただひとり 君を救えると思った
ばからしいって笑われても
ぼくらの思いだけは きっと永遠だと言った
それだけは信じていたんだ…
」や、「君のことで消耗していく自分が嫌いじゃなかった
ぼくのやさしさってきっと君のためじゃなく
悲劇のヒーロー気取った見せかけの腐った心」という歌詞に秘められた愛への憧れと偽善的な自分の心に気づく内省が心に響いたのだった。



今では、「ぼくらの思いだけはきっと永遠だと言った それだけは信じていたんだ…」という歌詞にも、胡散臭さを感じずにはいられない。

だけど、それでも、そこには、どこか今でも変わらず共感できる一面がある。

そうした「思い」への一定の理解ができるうちは、自分もまだ音楽をやっていていいんだなと思う。

おわり。

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