…発掘したけど。
タイトルだけ書いて、そのまま寝落ちパターンってやつですかね。

本当に何書こうとしてたか全く思い出せない(^^;)

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理論言語の世界の言葉ばかり使っていると、なんだか曖昧な概念の感性的な生活言語が胡散臭くなって、なかなかそういう記事が書けなくなる。

これは、「高尚」な理論言語の優位を言ってるのではない。

むしろ、感性的な感性言語の難しさを言っているのだ。

実は、理論言語は、耳慣れなくて肌に馴染まないから難しく感じるだけで、概念の中身を知ってしまえば、定義がはっきりしているから、むしろ使いやすい。

一方、感性的な生活言語は、捉え方は人によりけりだったり、その時々の特有の意味づけがあったりするから難しい。

その証拠に、生活言語で綴った過去のブログなんかは、時間が経ってから読み返してみると、自分が何を言いたかったのかよく分からないということがよくある。

当時はきっと、自分なりに一生懸命悩んだのだろうけれど、残念ながら、何をどのように悩んでいたのか思い出せないのだ。

つまり、胡散臭いというのは、気持ちが乗ったかのように見えて、実は、それがそのままに伝わらない可能性を多分に含んでいるという意味で胡散臭いのだ。

自分の「思い」は読み手に十分に伝わっていると、つい錯覚してしまうが、実際は、文章に込めた自分の真意というのはなかなか伝わらないものであるということを知っていながら、その文章についつい「思い」を込めてしまう自分自身に胡散臭さを感じてしまうのだ。

それと、もう一つ。

自分の中には、常に、気持ちを込める自分を冷ややかな目で見る自分が住んでいて、なかなか、自分の気持ちを前に出せない。

それが当たり前のように生きてきたから、これまでそんなに意識したこともなかったが、意識してみれば、私の生活は、極端に自分の気持ちを出すことが少ない。

正当性の主張をするということは多いが、気持ちを主張するということは少ない。

思うにそれは、きっと、キリスト教道徳のなかで一生懸命に欺瞞的な「美しい」自分をつくってきたせいで、「あるべき姿」ばかりが先行して、本当に思っていることを隠し続けてきたことや、素直な自分の在り方を兄から嘲笑され続けて育ったことで、素直に気持ちを表明することを抑制してきたこと、といった私の生育歴に関係している。

それが、実際に、真であるかどうかは分からないが、自分では、そんな自己認識を持っている。

そんなわけで、私は、家庭環境的な複合的事情で、自分の「気持ち」を語ることに「生理的嫌悪感」を感じる。

ある意味、政治哲学の領域で議論が盛んな「正義論」(日本でも、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』で広く知られるようになりました)への憧れも、そうした「気持ち」的なものを遠ざけようとすることの反動的な側面が少なからずあったように思う。

とはいえ、根本的に、井上達夫のリベラリズムを支持する私の思想的・実存的な「正義」観は、「すべての人間の『善き生』の自由と多様性が尊重されるべきであるからこそ、すべての人は、『基底的』な『正義』による制約を受けなければならない」という「正義の基底性」の理念に基づいていて、「冷徹な正義漢」への憧れから「正義論」に入ったわけではないことは断っておかなければならないのだが。

しかし、内省して自分を振り返ってみると、私という人間は、やはり、「気持ち」を語ることが少なく、明らかにそれを嫌悪している。

その克服というのが、自分の課題であるように思う。

…4月14日に書いてたやつを、補正加えて、5月26日の本日、アップしてみました。

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病床で、内省的で優しく奥深いマイルスのつくり出すサウンドを聴きながら過ごすAM4:12。

トランペットについても、マイルス・デイヴィスについても、そんなに詳しいわけではないから、評論家のようなことは言えないけれど、今、“Kind Of Blue”を流していて、改めて思うのは、マイルスのサウンドのすごいところって、ジャズ界を引っ張った革新的な新しいアイデアもそうだけど、何と言っても、そのマイルスという人の根幹にあるこの内省的で優しいサウンドだなって思う。

街中で、マイルス、もしくは、マイルス的な吹き方の演奏が流れてくると、一音鳴っただけで耳に入ってくるものね。

北浦和の「膳」の飲み会のあととか、店前でマイルスの演奏(だと思う、たぶん…)が流れてくるの聴いて、すぐ、「あ…!」って思ったもの。

それだけ、説得力がある音なんだと思う、というより、少なくとも、私には、マイルスの音は、それだけの説得力をもって身体に入ってくる。

音楽って、価値相対主義的に見れば、どれも、どんなに頑張ったって「ただの音」なんだけど、この「ただの音」がこんなに「意味」をもつことを知ってしまったら、それは、その「音」から離れられなくもなるわと思う。

「音楽家」という専門家が社会的に成立するのも納得いく。

昔、もし、一夜にして世界の価値観が崩壊して音楽が意味をなさない社会になったら、音楽家は全員失業するんじゃないかとか、そういう空想話を考えたことがあるが、そうだとしても、人はまたその「音」の中に「意味」を込めて、人はそこから「意味」を汲み取って、また、「音楽家」は社会的に成立していくと思う。




…過去の書き途中ブログ発掘してるのだけれど、わりといいこと書いてるな、過去の自分(笑)



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