国政選挙などを見ているうちに、山口県、和歌山県、神奈川県などは県民の民度が
低いと思っているが、千葉県民もそれに劣らず低いと常々思っている。
その千葉県の松戸市で、平成29年に小学3年生のベトナム人女児が殺害された。
犯人は同じ学区のPTA会長だった。誘拐して強姦し扼殺して遺体を放棄した。
犯人が同じ学区のPTA会長だったということと、そういう人間をよくも関係者は
PTAの会長に選んだものだというそのことで、私は松戸市と千葉県民の不条理さ、
著しい民度の低さ、公民性の欠如というものを改めて認識したものだった。
本日、東京高検は犯人の渋谷恭正に無期懲役を言い渡し検察が上告を断念したために
死刑はなくなった。亡くなった女児の両親はさぞかし無念であったことだろう。
もし私がその女児の親だったなら、拳銃を入手するとか、日本刀を購入するとか、
なんとしてでも、この男を撃ち殺すか斬り殺すかすることだろう。それでも、
なんら気が晴れるというものでもないが、そうせざるを得ないように思う。
そもそも法律はなぜできたのか、刑法はなぜできたのか、ということを法曹界の
人達は忘れているのではないかと私は思っている。法律がなかった頃、あるいは
必ずしも十分浸透していなかったころ、犯罪者はどのように扱われていただろうか。
私刑である。あるいは仇討ちである。それが合法であった。それが次第に過酷に
なってきて、軽微な犯罪を犯したものさえ私刑という吊るし首になるという事例が
増えてきたのである。そういう過酷な私刑から救うために刑法ができたのである。
このことはアメリカの西部劇に如実に表現されている。牛を盗んだものは絞首刑、
あるいは盗もうとしただけで絞首刑、終いには牛でなくても盗んだだけで
絞首刑ということが珍しくなくなってきたのである。そういうときに
適正な量刑というものが望まれるようになったのは至極当然のことである。
しかし、今の日本の刑罰はどうであろうか。裁判所の判決は被告の遺族に納得して
もらえるものになっているだろうか。全く否である。今回のベトナム人小学生殺人事件、
池袋母子轢殺事件、他にも沢山あるが、そうした悲惨な事件の被告はせいぜい無期懲役
であって、無差別殺人のような大量殺人事件を除いて被告が私刑になることは全く無い。
これで法律が維持できると法曹界は考えているだろうか。私は、遺族から秘密裏に
被告の殺人を引き受ける非合法組織ができてもおかしくない、とさえ思っている。
それくらい、最近の犯罪者への量刑は非常に甘くぬるくなっている。これでは
ヤクザでなくても、人殺しして、後は単なるお勤めということになってしまうのでは
ないだろうか。こんなことで一体、日本は法治国家と言えるのか、と私は言いたい。
最近の裁判長は女性が多くなったという。一体、女性に死刑判決が言い渡せるのか、
と私は疑問である。もし被告が朝鮮人で、その被告に私刑を言い渡したりしたら、
朝鮮人が集団となって家族などに嫌がらせをすることだろう。家に放火されること
だってあるだろう。家族が交通事故に合うこともあるだろう。実際、在日韓国朝鮮人は
TBSやNHKにそういう脅しを使って身内の就職を勝ち取っているのである。
そういう重圧に女性裁判官は耐えられるのか。男だって同じである。
耐えられる人は非常に少ないことだろう。だから、毎回毎回甘い判決が
出るのである。法学部で勉強だけして、ぽんと裁判官になった人間に
そういう反社会集団の重圧に耐えられるだけの胆力はない。それなのに
裁判官、裁判長になっているのである。こういう司法制度に国民がそろそろ
見切りをつける時期に来ているのではないかと私は思っている。
もう、裁判に頼むことはない。自分で決着をつけるときだ、と考える人が出てくる
だろう、ということである。もう法に頼むことはない。仇は自分で討つ。あって
ないような法律はもういらない。自分で仇を討つ。つまり、私刑である。
今のままではそういうことが起こる時代が来るのではないか、と私は思うのである。
これからの日本は、正義を守るのは自分しかいない、という国になるということ
で果たして良いのか、と私は思うのである。しかし、今のような司法が続けば、
日本がそういう道を歩んでもおかしくないのではないかと私は思う。