あれから2年~Remember 3.11 | オッサンの呟き

オッサンの呟き

特にテーマはなく、独り言のように日々思ったことを呟きます。そんな他愛のない話しに付き合ってくれる人がいるかな?

68年前の今日は東京大空襲によって2時間半で10万人の死者が出たという。そして2年前の明日は・・・。

未曾有の大災害が発生して明日は2年が経過します。被災した方々の中には、普段は傷が癒えたかのような笑みを浮かべていても、この節目の日を迎えるにあたって心が乱れる方は多いのかも知れません。被災者ではない僕の心ですら乱れるものを感じます。

ここで交流を戴くようになった方たちにはお話しをしたことがないのですが、僕には被災地に親戚がいます。福島原発から約7キロの場所でした。漁港のすぐ脇にあった家は津波で跡形も無く流され、先祖代々の墓も無くなりました。

その家の敷地内には、子供たちを含めて15人が暮らしていたのですが、全員奇跡の生還を果たしました。地震発生から1週間ほど連絡がつかなかったので、とても重苦しくて長い時間が流れていたことは今も生々しい記憶です。被災者でない僕でも過去にすることがまだできません。

地震の発生した当日は、仕事で東京の浜松町付近にいました。関係先の会社に打ち合わせに出向いていたのですが、突然の巨大地震で壁に掛けられていた時計が自分の目の前に飛んできたのには驚きました。

外を眺めると、他のビルや電柱がまるで映画のセットのように揺れていました。周辺道路は所々ビルのガラスが散らばり、そしてガスの匂いが充満していました。人並みで渋滞する歩道を2時間ほど歩いて会社に帰りました。

その日は会社が急遽用意してくれたホテルに泊まることになるのですが、朝まで被災地域のニュースを見ていました。

翌土曜日、大混乱になっている交通機関でしたがなんとか家に辿り着きました。そこで改めて伝言ダイヤルを使って親戚との連絡を繰り返し試みました。ネットで情報も集めていましたが、自衛隊機が海岸線を空から撮影した画像を見て、親戚の家やその付近が凄惨な状況になっているのが確認できました。その時点で少し諦めの気持ちも湧きました。

1週間が経ってから連絡がつき、全員の無事が確認できたときにこみ上げてきた気持ちは忘れられません。本当に安堵しました。泥だらけになったトラックと軽自動車で我が家にやって来たときの様子は今でも目に焼き付いています。どの辺りにどのくらいの泥がついていたかという記憶もハッキリとあります。

たまたま通りかかった近所の人たちが福島ナンバーに気づいたので取り囲まれました。そして見ず知らずの叔父たちはねぎらいの言葉、お見舞いの言葉を受けていました。世知辛い世の中になったと思うことが多くなりましたが、この時は、世の中まだまだ捨てたものじゃないなと感じました。

それから我が家で半年ほど一緒に暮らしたのですが、一時は子供4人を含む11人が同居していました。普段は僕とオヤジだけの2人暮らしだったので生活は一変しました。

物置小屋には近所の人や親類が集まってきて置いて行った服やコメが大量に入っていました。あのときはコメが買えませんでしたから、まるでウチで買い占めをしてるかのような状態になっていました。

60歳を超えた叔父は叔母と一緒に直ぐに働きに出ました。たまたま僕の付き合いで雇ってくれるところがあったのですが、叔父が左官職人であったということは幸いでした。手に職を持っているというのは大きいですね。勿論、叔父や叔母が折れない心の持ち主であったこらこそ、働くことを希望したのです。じっとしていたら、亡くなったご近所さんや友人たちを思い出すことになったので、それを嫌ったということもあったようです。

ほぼ毎晩、晩酌に付き合いましたが、10時半くらいには寝てしまう生活になっていたので体調は極めて良かったです。その晩酌のときに叔父は繰り返し言ってました。『こんなもんに俺は負けねぇ。もう一回家を建てるぞ』と。強い気持ちを持った人です。

叔父たちの口から生々しい被災地の様子を聞きました。子供たちが風の音がするだけで地震が来たと勘違いをして寝られなくなってしまう様子も身近で見ました。叔父たちと一緒に何度も被災地へ向かい、ガレキが手つかずになっている光景が360度広がっているという、信じがたいものも自分の目で幾度も見ました。畑や田んぼであったろう場所に、沢山の船が流れ着いていました。

今も被災地の様子は余り変わっていません。所々整備が進んでいる箇所もありますが、やはり放射能を帯びたガレキの除染と処分が問題になっています。また海岸線沿いには建物を建てるのに制限ができましたが、それに代わる新たな宅地を造成するお金は行政にありません。余りに被災地域が広すぎるのです。

被災地で元気なのはパチンコ屋だけです。震災直後に行くあてのない避難所の人たちを集めてタダで打たせてパチンコを覚えさせたのです。被災地では鬱やアルコール依存の問題が取り上げられたことはありますが、パチンコ依存というのは聞いたことがないと思います。

実はこちらの方が大きな問題なのですが、巨大な政治力で抑えられてしまって表には出て来ません。平日の昼間から空き待ちの車で溢れている駐車場は、嫌と言うほど出張時に見ました。被災地の復興への活力を奪っていることは間違いありません。

いずれにしても被災地の復興には神戸の震災のときよりも遙かに時間が掛かかるのでしょう。自分にできることをしたいという気持ちを強く持ち続けていきたいと思っています。


 

 
昨年12月に仙台出張した際に撮影したものです。まだ普通にこのような地域が広がっています。これはまだ手が加わっている方です。