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The passenger of life

人生という小さな小舟に乗りこんだたった一人の乗客。行き先を決めて進むのは自分。僕は人生をどこに向かわせるのか。流れにまかせるのか必死に舵をきるのか。さあ、どうなる?自分。

先ほど、舛添さんの当確が報じられました。

僕は舛添さんに投票したので、一安心しました。



誰に一票を入れるか、今回はそれぞれの立候補者の方の意見をかなりじっくりと読み込みました。

結果、舛添さんの言っていることに一番将来性を感じたのでした。



僕はどうしても、自分たちに都合のいい言い分を口にする人を疑ってしまいます。

そんな都合のいい話があるわけない。

そう思ってしまうと、その人の意見に信頼を置くことができなくなってしまう・・・。



本来は、未来に希望を懸けて投票するのが選挙なのかもしれない。

でも、その政策が明らかに不可能だと判断できてしまえば、やはりそれには賛同できない。

だから、今回は遠回りでも確実に良い方向に進む意見に賛同しました。



選挙はその時の自分を見つめるいい機会だと思っています。

どの意見に自分が傾くかで、その時の自分の立ち位置がわかる気がします。

今の僕は目先よりも長期的な将来性を重視しているのでしょう。

そもそもこの判断が正しいかどうかはわかりませんが、自分が住むこの東京がより良い都市になることを願っています。





東京に雪が降っています。

ただ降るだけじゃなくて、積もっています。



こんなにもしっかりと降ったのは久しぶりです。

しかもかなり積もっています。

田舎に住んでいた時は、これくらいの雪は普通だったのですが、東京だと雪の降る意味がだいぶ違います。

それは「不安」という文字が湧きあがってくることです。



雪は冬の風物詩です。

綺麗だし、情緒に満ちています。

その反面、自然の厳しさが具現化したものでもあり、とても怖いものでもあります。

雪の美しさを眺めているだけならいいけれど、その厳しさに触れるとなると覚悟が必要です。



田舎に住んでいるとき、雪の怖さを何度も味わいました。

油断をしていたときもあるけど、すごく注意をしていても危険な目に遭遇してしまいました。

雪で危険な目に遭遇するときは、即命の危険につながります。

僕自身、奇跡的に回避できたとしか思えない場面を経験しています。



そんなこともあり、雪をみると「美しいな・・・」と思うと同時に、恐怖を感じるのです。



東京には雪があまり降らない。

つまり、雪の怖さを身をもって知っている人が少ないということになります。

僕はこれが一番怖いのです。

おそらく、雪の降る地域から東京に出てきた方は、僕と同じようなことを思っているのではないでしょうか。



雪を理解していない人が運転する車が怖いのです。

テレビでは夏タイヤで雪道を走っていた車が、スリップして立ち往生している映像がよく流れます。

そして、その車を助けようとして、通りがかりの人が後ろから必死に押している映像もよく流れます。

なんだか、日本人らしい助け合いの一場面な気もするけど、本来なら避けられた場面です。



チェーンを巻く、スタッドレスタイヤの限界を知っておく。

これを知っておけば避けられたはずです。



また、一番の問題は助けようとした人が、事故に巻き込まれる可能性があることです。

助けようと後ろから押していた車が急に下がってきて車の下敷きになったり、スリップした車が後ろから突っ込んできたり・・・。

こんな事故は本当に嫌だし、起きてほしくない事故です。

でも、きっと起こってしまう。

明日はこんな場面が東京のあちこちで起きてしまうかもしれない。



困った人は放っておけない。

きっとみなさんそうだと思います。

僕だって立ち往生している車があったら助けます。

でも、そのときは細心の注意を払いながらです。



このブログをどれだけの東京在住の方が見るかはわかりませんが、どうか車に乗るときはチェーンを巻いてください。

もし外出しなくていいのなら、外に出ないでください。

たくさんの人が外に出れば出るほど危険が増えます。



みなさんどうかお気をつけて・・・。







最近、世阿弥の風姿花伝と、兼好法師こと卜部兼好の徒然草を読んでいます。

どちらも以前に読んだことのある書物ですが、今感じるものは以前のそれとはまったく異なります。

仕事を通してだったり、また時間を重ねた経験などが、書かれている内容の本質に自分を少しだけ近づかせたのかもしれません。



今回は徒然草からこの段を紹介したいと思います。



主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来る事なし。主なき所には、道行人濫りに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気に塞かれねば、所得顔に入り棲み、木霊など云ふ、けしからぬ形も現はるるなり。

また、鏡には、色・像なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。

虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあ らん。心に主あらましかば、胸の中に、若干(そこばく)の事は入り来らざまし。



以下は僕の要訳です。



誰も住んでいない家には誰かが勝手に入り込むことができるし、獣が住みついたり、幽霊が出るなんてことになったりする。

鏡はそれ自体に形や色がないからこそ、その前に立つものがありのまま映り込む。

人の心は家と同じで、誰も住んでいないとわけのわからないものが入り込んでしまう。でも、人が住んでいればそう簡単には立ち入るものはない。心に主がいれば、雑念も入ってこないだろう。



家と鏡、そして人の心をそれらに重ねて真理を語っています。

今もこれと同じようなことを語る人は大勢いるし、たくさんの本に同じようなことが書かれています。

でも、兼好法師の書き残したこの文章には、どんな文章にもない説得力があります。

心理学とかメンタル論とか、そういう角度ではなくて、すっと心に沁みてくる説得力。

素晴らしいと思います。



さてさて、この段を初めて読んだのは中学生のころだと思います。

古文の授業で読んだのが最初だと思います。

その時はきっと「ふーん・・・」くらいだったはずです。

でも、この段の裏にある本質には当然たどりついていなかったと思います。



心に雑念があるのは、心に主がいないから。

主のいない空間には通りすがりの誰かが入り込んでしまう。

自分の心なのに、主がいない。

主は自分なはずなのに、自分ではない何者かが心を支配してる。



僕はそんな心に気付くまでに時間がかかりました。

そして気づいてからこの段を読むと、その奥深さに深く感銘を受けたのでした。



徒然草は日常の心の動きに深い洞察をあて、ものごとの真理を説いています。

時代は違えど、人の営みは大して変わりありません。

むしろ、精神的なふり幅や器は昔に比べると小さくなっているかもしれないから、現代の真理を説く書物よりも、徒然草からは多くのものを学べるのかもしれません。



みなさんも読んでみてはいかがでしょうか。

読み物としてもとても面白いです☆