かなり前のことになりますが、自分の置かれている状況がどうにもならず、そのままでいると進むべき道、生きる方向性を違えてしまいそうになっていた時期がありました。
詳細を綴ると本が書けてしまう量になってしまうのでここには書きませんが、その当時の僕にとって、それは頭の中を四六時中支配する問題でした。
大人になった今なら解決法もわかるし、それを遂行できる力もあります。
しかし、それがわからなく、力も備わっていなかった僕は、自分の内におもいだけを抱え、ただただ毎日泣いて過ごしていました。
そんな期間がかなり長い期間、10年に近い時間その問題を抱え続けていました。
今思えば、よく耐えられたなと思います。
もし同じ状況が現在の自分に降りかかってきたら、数ヵ月も耐えられないのではないかと思います。
それくらいに日々の精神的ダメージが大きなことでした。
そんな時期の中でも、もっともその問題が激化していたころ、僕はある程度自我が確立してきて、世の中のことや人間のこともわかりはじめてきていました。
それがなおさら自分を苦しめることになったわけですが、逆に自分を救う方法を探すことができるようになったということでもありました。
誰の力も借りられないのなら、誰も手を差しのべないのなら、自分で自分を救うしかない。
それがわかるようになっていました。
様々なやり方で、自分に降りかかるストレスや、抱いてしまうやりきれぬ気持ちをコントロールしていました。
そんなもののなかに、読書がありました。
美しい世界や、自由奔放なストーリーの小説を好んで読んでいました。
そんな作品を読んでいる時は、心が本の世界に溶け込んで、自由になれていました。
現実逃避ではありましたが、ずっと苦しい気持ちのままでいたら、普通に生きることはできませんでした。
現実逃避だとわかっていながらも、心と精神を緩められる時間が必要だったんです。
そんな読書でしたが、いっとき哲学的というか、癒しを題材にした本を読み漁っていたこともありました。
しかし、どこか自分の気持ちとはずれていて、また、あまりにもお花畑のような内容のものが多く、まったく響きませんでした。
でも、一冊だけ強く影響を受けた本がありました。
その本のタイトルが「こころのおもむくままに」でした。
実はこの本、読んでもいなければ、買ってすらいません。
ただ、本屋さんで見かけたそのタイトルだけに救われたんです。
自分を苦しめていたの環境だけではなく、自分に対する思いであることに気づきました。
泣いたり笑ったりを、意識してコントロールすることが自分を苦しめていました。
また、現実を否定し続けていたことが一番の苦しみだったことにも気づきました。
幸せそうなあの人はあの人で、僕の人生はあの人と同じじゃない。
これが僕の人生だから、こんな毎日でも僕が思うように生きよう。
他の誰かと比較ばかりしていた当時の僕は、誰かの幸せそうな様子が羨ましくて仕方なかったんです。
なぜ僕だけこんな毎日なんだ。
そう思っていたんです。
そこから解放されました。
泣きたいことがあればその場で泣けばいいんだ。
それだけのことがそこで起きているんだから。
笑いたいときは笑えばいい。
自分がそう感じたのだから、まわりの空気に合わせる必要なんてない。
嫌なことは嫌だと言い放てばいいんだ。
目の前で嫌な出来事が起きていても、なんとも思ってないよ、と演じる必要がどこにある?
これらがどこのどんな場面でも通用するわけではありませんが、当時の僕の環境の中では、自分を解放する最良の手段でした。
喜怒哀楽の感情を偽らないこと。
自分の感情を、思いのままに表現すること。
つまり「こころのおもむくままに」だったんです。
そこからかな・・・年齢的な成熟もあったのだとおもいますが、徐々に苦悩からは解放されていきました。
環境が抱える問題はまったく変わっていませんでしたが、自身が変わることで、日々の生活がどんどん良いものになっていきました。
もちろん、この「こころのおもむくままに」という言葉はきっかけでしかありません。
いつも一緒に泣いていた姉が。
いつでも一緒にいて、バカな話に大笑いしていた友人たちが。
また音楽や文化的ものとの出会いが、良き方向へと導いてくれました。
そのどれもがかけがえのないものだったと思います。
昨夜、ある楽曲を聴き、当時のことを思い出しました。
また、親友が綴った心情を先ほど読み、この記事を書こうと思いました。
なにがどうしてこの記事を書かせようとしたのかは自分でもよくわからないのですが、今書かなきゃ・・・という気持ちになりました。
こんなことをここに書くことはしないと決めていたのですが、書いてしまいました。
これも「こころのおもむくままに」なのかもしれません。