「SNSは議論に向いていない」


 そう感じること自体に異論はありません。

 文字だけでは伝わる情報に限界があり、

意見が二項対立になりやすい。


議論そのものよりも、「どちらの立場か」

という構図になってしまう。

 そういう側面は確かにあると思います。


 ただ 「SNSは議論に向いていない」

 という一般論よりも、その前提となる

過去の経緯について。 


「他人のブログに文句ばかり言っている人は

音楽の話をしたことがあるのか」


という趣旨の記事を書き、

自ら他者の発信や界隈に対して

問題提起をしました。


 それは単なる独り言ではなく、明確に

他者へ向けられた問いだったと思います。

 音楽で対話をしよう、

といった一般論ではなく、タイトルで

「何のため?」

とその意図を問うた。

 対象も明らかに限定されていました。


 当然、異論や反論も生まれました。 

アンサーブログの数を見ても

「意図しない形で受け取られた」結果

ではなかったと思う。 しかし、その後の

問いかけや疑問に対して応じることはなく

時間が経った今になって

「SNSは議論に向いていないから、

議論の場には立たなかった」と説明する。


 そこに違和感を覚えます。


 議論をしないことは自由です。

 けれど、自ら他者に踏み込み、

問題提起をしておきながら、

その後の問いかけには応じず、

後になって「場が議論に向いていなかった」

と説明するこの状態、 

「議論を避けた」のではなく、 


「対話は避けるが敢えて問題は提起する」

と受け取られても

仕方ないと思います。 


そもそも、最初から議論をするつもりが

なかったのであれば、なぜ他人のブログや

距離を置くと宣言した界隈に

踏み込む必要があったのか。

 そして、

「『批判ブログ対音楽を語るブログ』

という構図で受け取られてしまった」と

まるで「受け取り方の問題」のように

語られますが 、その構図を生み出した一因は


「文句ばかり言っている人は

音楽の話をしたことがあるのか」


という、一括りにするような

表現そのものにもあったのでは?

受け取る側は言葉通りに受け取ったまで。 

もちろん、後から言葉を足すこと自体が

悪いわけではありません。 

ただ、今になって説明を重ねるのではなく、

もっと早い段階で

できることもあったはずです。


 「SNSは議論に向いていない」と感じていた

のであれば、今回の記事のように、

自分の考えやお気持ちを「一方的に表明する」

という方法もあったはずです。 

議論という形を取らなくても、

自分の意図や考えを整理し、

誤解があると感じたなら

補足することはできた。


にもかかわらず、当時は問いかけや疑問に

応じることなく無視を貫き、

十分に時間が経った今になって

「本当はこういう意図だった」

「SNSは議論に向いていないから

議論の場には立たなかった」と説明する。 


だから今回の文章は新たな気づきや

率直な心境というよりも、

自らが取った行動や向き合わなかった部分を

後から整合的に説明するための補足

のように私には見えてしまう。


「議論するか、沈黙するか」の二択のように

読む人に錯覚させていますが、 

議論を避けることと、何も語らないことは

同義ではない。

今こうして一方的に語るのだから、 

当時もできたのではないですか。

 正論を語る事で

自分が投げっぱなしで

向き合わなかった態度を

正当化しているように見えます。


どれだけ穏やかな言葉で説明したとしても、

自ら他者に踏み込み、
問いを投げかけ、


反応が返ってきたあとには無視を貫き


そして時間が経ってから

「議論に向いていない場だった」と説明する。

その経緯自体は変わりません。 


問いを投げたのであれば、 

返ってきた反応にも向き合う。 

その姿勢があってこそ、対話は成り立つ。 


対話を望まないのであれば 

宣言通り距離を置き、

それを貫いてくだされば 

今後はご自分の周囲は

平和でしょうね。