かつて徳川家康は武田信玄と10回ほど戦ったが、1度も勝つことができず三方ヶ原では討ち死に寸前にまでなった。
主君の盾となって散った忠義の家臣がいなければ彼は30歳で死んでいたはずである。
しかし最終的に天下平定し戦乱の時代を終わらせたのは家康だった。信玄も信長も秀吉も京の都に幕府を開くことはできただろうが、結局応仁の乱を繰り返すことになって安定した世の中を出現させることは難しかったと思う。
それは、家康だけが国家という巨大な組織運営に必要なビジョンと知恵、資質を持っていたからと思います。
彼は物心がつく頃には今川家の人質だったし、明日をもしれない緊迫感の中で幼少期を過ごしたが、優れた資質の根幹は
「学ぶ能力」
にあったと思う。特に一度も勝てなかった武田信玄との対戦経験は大きなウェイトを占めており、敗走を繰り返しつつも何かを得ていたのだろう。天下人となっても武田の遺臣を結構とりたてている。
さて、国産旅客機を日本企業の連合で再挑戦するという記事がでていた。三菱MRJがなぜ失敗したのかは前にも書いたような気もするが、再挑戦するからには心して臨み、必ず成功させるべきである。
飛ぶ飛行機を作る技術があるということと、型式証明を得ることは全く次元が違う。三菱の失敗はここを正しく理解できない点にあったのだが、長期にわたる開発期間の中で「こんなことをしていたら型式証明をとることはできない」と気づいていた人もかなりいたと思う。
しかし、旧帝国大出身で航空技術の権威で偉いと言われている人たちは聞く耳を持たなかったからなのか、社内力学のなせる技か不明だが、世界の国際空港に着陸できるためにはDO178等の要件をクリアしなくてはならない。
戦後日本の航空機開発をさせまいと底意地の悪いことをしてきたアメリカだが、型式証明のスキームを牛耳っているのはそのアメリカである。米国の首を縦に振らせるためには、歯を喰いしばりつつも賢くふるまうことが必須である。それには、ビジョンと知恵が求められる。
従来型のジェットエンジンではなく、水素エンジン と言っていたが気持ちはわかるが、相当ハードルは高そう。
航空機開発の人たちは、自動運転の国際規格、型式認証のスキームづくりに尽力してきた自動車産業界の人たちに学ぶものも多いはず。関係者の方々の
「学ぶ能力」
が試されることになる。