紫禁城の黄昏(2) | 石田マネジメント事務所

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技術やものづくりに関する最近の話題と気づき、ちょっとした備忘録を書いています。

つづけてみてみましょう。

 

「・1911年に革命が勃発した時、満州は革命に参加

  したがらなかった とリットン報告書に書かれている。

・そうこうするうちに、満州と蒙古は事実上シナの共和国

 の一部となった。張作霖はまだ後のような独裁者ではな

 かったが、自分の利益の確保となるとぬかりがなかった。

・しかし遅かれ早かれ日本が満州の地で2度も戦争をして

 獲得した権益を、シナの侵略から守るために積極的な行動

 に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信する人は大勢

 いた。

・満州皇帝復活を望む君主制主義者は、日本と中華民国が

 抗争すれば自分たちが待ち望む好機が訪れると考えた。

・これをシナへの裏切りだと叱責する人に対しては、「シナ

 はすでに満州人を異民族、夷族であると宣言し、それに

 基づいて満州人を玉座から追放したではないか」と答える

 にちがいない

・1919年には「日本の保護下で新しい蒙古王国を結成

 しようとする全蒙古運動」が新聞紙面に載った。

・張作霖は奉天で若い皇帝を帝位につかせ、同に日本の保護

 下で満州を独立国として宣言させようと目論んでいた」

 

張作霖はこのころ別の張勲という人物と組んである企てをしますが失敗し、これをきっかけに別の野心を抱き始めたと書かれています。もし皇帝が復位すれば、張作霖はいつまでも背後に隠れていることはないだろう、若い皇帝のためではなく、自分とこの人物のために行動するに違いない と指摘する人物もいる と書かれています。

 

・1928年満州歴代皇帝の陵墓が盗掘され宝石や貴重品が

 強奪された。遺骨は散乱し遺体も切り刻まれた。犯人の

 首謀者には国民党政府の軍人 譚温江も含まれていたが、

 全員刑罰を免れた。国民党も南京政府も哀悼、悔恨の情

 のかけらもみせなかった

・このとき以来、シナに対する皇帝の態度は激変した

・1931年柳条湖事件が発生した。11月工程は天津を去り

 満州に向かった。シナ人は日本人が皇帝を誘拐しその意思

 に反して連れ去ったと躍起になっており、ヨーロッパ人の

 間でもそれを信じる人は多かった。

・だがそれは真っ赤な嘘である。どう転んでも皇帝は蒋介石

 や張学良のような連中に避難所を求めるはずはない。皇帝は

 本人の自由意思で満州に向かったのである

 

この後、満州国が成立します。列国はみな日本を非難し、満州国の承認を拒否しましたが、当時の満州国にはシナ人すら大挙して満州国に押し寄せることになったのでした。法治が行き届き、安全で安心して暮らすことができる場所はここにしかなかったからです。

 

戦後、東京裁判で証言台にたたされた溥儀は、ソ連から指示された通り「すべては日本軍閥の仕業であり、自分は全くの傀儡だった」と証言します。当時溥儀が陸相南次郎大将に出した親書の中で、「満州国皇帝として復位し、龍座に座することを希望する」と書いていた事実を突きつけられても、偽造だといってはねつけました。

 

これには血を分けた弟の溥傑でさえ憤慨しました。「日本軍閥はわれわれを利用したかもしれないが、われわれも彼らを利用しようとしたことをなぜ証言しないのか」といって、兄の溥儀のふがいなさを嘆いたそうです。