徴兵制賛成論
ヴェトナム戦争時、アメリカ合州国内で反戦運動が高揚したのは徴兵制が敷かれていたからだ。そのシステムは「抽選」であった。
後に有力者子弟の徴兵逃れなどが発覚するが、「抽選」はある意味「ほぼ平等」を表現していた。
その平等性とは、裕福な者も、貧しい者も、戦争で死ぬ危険性があるという平等である。
だからアフリカ系アメリカ合州国人であるモハメッド・アリが徴兵を拒否したことに対する批判は凄まじいものがあった。
大学を出たコーカソイドのキリスト教徒の青年が遥か遠いヴェトナムで死ぬのに、アフリカ系でイスラム教徒のボクサーが戦争に行かなくていいのか?という批判である。
その批判の拡大より、反戦運動の高揚の方が規模が大きかった。
理由は簡単。
ウチの息子が死ぬかもしれないという危惧と、戦争に対する疑義である。
そこから合州国軍が学んだことは徴兵制の廃止である。
戦時負担の平等性から乖離したのだ。
元々志願兵にヴォランティアーという言葉を用いているように、人々に高潔さを発揮してもらおうという発想ではない。
志願することに「特典」を与えることにしたのだ。
大学入学資格(奨学金)や社会保険番号付与や市民権などである。
その「特典」に志願兵となる人々の階層は固定化される。
貧困者だ。
全米レベルの反戦運動は起きているだろうか?
「大量破壊兵器がある」という理由で始めたイラク戦争に対する反戦運動ですら現象として捉えられない気がする。
集団的自衛権行使容認が具体化し、自衛隊だけでは人員が確保できなくなったとき、日本は徴兵制をとるだろうか?
私はとらないと思う。
反戦運動を嫌うからだ。
自衛隊入隊の「特典」が増すだろう。
だから、多くの市民が武力行使について真剣に考えざるを得ない徴兵制に賛成する。
27歳、北へ…下北への徒歩旅行 2 1981.3
大間へ
大間崎を後にして大間の町へ向かったのだが、これがかなり辛かった。スケッチをして体を冷やしたのも原因となっているのだろうが、本当に足取りが重くなってしまった。バス通りからはずれてしまったので、バスに乗る事もできず、ゆっくりにしか近づいてこない波越しの大間の町の外形を疎ましく思ったりした。
気がつくと海岸が岸壁になっていて、そこが町だった。

表のバス通りをカーフェリーの船着場の方へ行った所に紹介された「なかしま」という商人宿があった。狭い港湾道路に直接面している事もあり、看板がなければ倉庫にしか見えなかった。若い男性が出てきて陽気に対応してくれた。蛇浦(実際には風間浦村)のあばあさんに頂いた干物を出すと「あれあれ」と言って実に優しい顔をした。部屋に通されたものの、夕方の4時頃でまだ風呂にも食事にも時間があったので外に出てみた。
町は信号のある丁字路を中心にしていて、その回りにいくつかの店舗があった。書店や食料品店や雑貨屋や衣料品店で、ここが漁業の町である事を想像させた。海に注ぐ小さな川に橋がかかっていて、その脇に小さなとりいがあり石段が続いていた。その狭く不規則な石段を昇って見た。町の全体が見渡せるのではないか、と思ったからだが、石段の途中から太鼓の音が聞こえてきた。
その音は頂上に近づくにつれ徐々に大きくなり、神社のほこらの中から聞こえてくるものだった。ほこらの前の板の階段を昇り、閉まっている板戸の透き間から中をのぞいた。そこでは10人位の中学くらいの若い男女が太鼓を無心に叩いていた。その集団の太鼓の音と、太鼓を叩く人達の真剣な表情にしばらくその場に釘づけになってしまった。私の子供時代にこんな事があっただろうか?そんな思いが羨望の感情に変わっていくのに時間がかからなかった。
石段を降り、バス通りを反対側にわたり、海側の細い道に入ると何軒かの店がならんでいて、そのなかに喫茶店があった。「モア」という喫茶店だった。中に入りコーヒーを飲んだ。つげも旅先のコーヒーにこだわっていた。

その店はひとりの若い女性がやっていたが、彼女が大変美しい人だった。店に流れる音楽を聴いたり、スケッチブックの手直しをしたりして、コーヒーをふたつ飲んだ。コーヒーを持ってきてくれる彼女はなんとも優しい表情をするのだ。なぜかそれが優しく、嬉しく、暖かく、実に立ち去りがたがった。
宿に帰り、一番風呂に入れてもらった。家庭の風呂となんら変わらないのだが、新しい石鹸やカミソリを手渡され、気持ちがよかった。旅をなりわいにしている人々を相手にしているだけの事はあると思った。食事は本当の家庭料理で、炊事場の隣に6人がけのテーブルのある食堂がありそこでひとりで食べた。
一家できりもりしているらしく、女性が何人かいてその中の中年の女性に、旅の目的や仕事を根ほり葉ほり聞かれた。目的も仕事も説明できる性質のものではなかったので、自分の説明が破綻していくのを感じていた。この次は、通常ここに宿をとる人と同じように、「仕事」で来たいと思った。また、「旅」を仕事にできるかもしれない、とも思った。
しかし家人との会話のおかげで、明日の宿と今後の日程まで決まった。彼らは絵を描くなら絶対「仏ケ浦」がいいといい、それには明日佐井村まで行きそこで一泊し翌日の下北汽船に乗るべきだと勧めてくれた。「仏ケ浦」は奇観だが船からではないと見られないのだと言う。すでに私はどうせなら下北半島の西岸を歩いて南下しようと思っていたのだが、彼らに言わせると佐井村から先は道が無いと言う。どうしても徒歩で行くなら内陸の山間部を抜けるしかなく、彼らに言わせるとそれは「難所」で安全は確保できないとの事だった。
そして、私の無謀な計画を阻止するかのように佐井村の民宿に電話をしてくれた。その時電話で私の事を「絵描きさん」と説明していたので困ってしまった。なぜならそれを証明するスケッチブックのスケッチは大間崎の一枚だけで、後は日記や散文で埋まっていたからだ。
晩飯の後再度モアにコーヒーを飲みに行った。それこそ嘘を繕うようにスケッチブックに架空の風景を描いたりした。夕方と打って変わってお客さんが結構入っていた。漁業関係の人が多いようで賑やかだった。私はコーヒーをまた2はい飲み会計をすませるべくカウンターに行った。すると彼女が私に話しかけてきた。
「どちらから?」
私はどうしても「東京から」と言えなかった。根拠のない後めめたさを感じてこう行った。 「今日下風呂からきたんですよ。明日佐井村に行こうと思って・・・」 彼女との会話はそれだけだった。
その晩、私がモアでアルバイトをして少しの間ここで生活するという幻想にとらわれてなかなか眠れなかった。モアの二階に間借りできるだろうか?とか、彼女は結婚しているのだろうか?夜に男性が彼女を迎えに来て、独り遅くまで店番する・・・などという想念が頭から離れなかったのだ。つげも作品「やなぎや主人」の中で、潮干狩に訪れたN浦の食堂に住み着いてしまう「妄想」にとらわれた主人公を登場させていた。
佐井へ
翌朝自分では早く目を覚ましたつもりが一晩最後だった。港湾労働をしているという他の人々は昨日私より遅く帰ってきて、今朝はすでに朝食をすませ出ていったという事だった。5、6人いるという彼らとは一回も顔を合わす事が無かった。私は食堂ではなく炊事場の中のテーブルで家の人と話しをしながら朝食をすませた。その朝食には蛇浦で遇ったおばあさんにもらった干物があり、実にうまかった。
昨日の6時間の歩行で自信がついた事もあり、今日は佐井村までの全ての行程を歩こうと思った。なかしまを出て、再度モアに向かった。漁業関係者がお客に多いのなら朝からやっているのでは、と思ったのだが店は閉まっていた。もう二度と遇えないかもしれないと思いながら、バス通りを佐井村へ向かった。
佐井村への道は海から遠くなる道がほとんどで、さらに海面よりかなり高い所の道ばかりだった。だから海は時々遠い所に見えた。
途中「材木」という小さな集落を通りかかった。バス通りから分かれる道があり、それがその集落に続く道でなんとなく足を踏みいれた。そのメイン道路と思われる道で、子供達が野球をやっていたのだ。男の子も女の子も、上は中学生くらいから下は幼稚園児くらいまで、総勢15人くらいでやっていた。私は脇の店舗で缶コーヒーを買い、その店舗の前の階段に座って野球をしばらく見物していた。なんとも楽しそうだったのだ。
途中のドライブインで昼食を食べたりして夕方には佐井村の民宿「やまこめ」に着いた。それまで民宿というものに泊まった事はなかったのだが、今度の旅で一番立派な家だった。奥さんがひとりでやっているようで、客は私ひとりきりだった。というより、私のために開けてくれたようだった。
例によって散歩に出て佐井港へ行ってみた。明日ここから下北汽船に乗り青森へ行くからだ。約3時間かかるとのことだった。佐井港はすばらしい夕焼けだった。
晩飯は20人位入れるだろう広間でひとりで食べた。奥さんがつきっきりで給仕してくれるのだ。百人一首の取り札が板になっているものが額縁にいれられていたり、アイヌ民族の衣装のアトゥシも飾られていた。なんでも庄屋だったので、北海道との交易品だったとのこと だった。
下北汽船
あくる朝起きると吹雪だった。やまこめの奥さんは私が聞くまでもなく、下北汽船に電話をいれてくれていて、一日1本しかないそれが欠航だと教えてくれた。私の計画はバスも終着であり先に道も無いというどんずまりで白紙になってしまったのだ。奥さんは私の計画の全てを否定し、バスで引き返す事を勧めてくれた。私は歩きたかった、 また、同じ道を引き返すのが甘受できなかったのだが・・・
結局奥さんの勧めに従ってバスで戻る事にした。ところがどこへ?戻る所などあったのだろうか?奥さんが言うには6時間ほどかければバスで青森市内まで「帰れる」という事だった。 私にとっては「青森」へ「帰る」という「現象」が魅力であり、その勧めに従うことにした。
奥さんはビニールレインコートを私にくれ、バスの停留所まで送ってくれた。そして、バスに乗った。痛恨の下北汽船だった。
津鼻崎
佐井村で乗ったバスの客は3人ほどだった。
私は窓外の雪を見ながら茫然としていた。なにをどうしていいか分からなかったのだ。私は材木というアナウンスに降車のボタンを押した。昨日出会った子供達が懐かしく思ったのだ。バスを降り、バスの停留所になっている小屋で簡易のレインコートを着て、町中の道に入った。誰もいなかった。家々も表を閉ざして いて、昨日缶コーヒーを買った店舗でさえ閉まっていた。誰ひとりとしていない町になっていたのだ。
私は歩いても1分とかからない集落のメイン道路を往復し、バス停留所の方へ引き返した。バスは常に一時間間隔であった。バス停の少し手前に「津鼻崎」という板の道標が立っていた。バスから降りる時には気づかない位置にある。観光用の道標には見えず、かなり貧しげな板の道標だった。私はその案内に添って昇りの細い泥の道を歩いて行った。しばらく歩くと今度は急な下りになっていて、着いた所は雄大な岩場だった。
赤いゴツゴツした岩場に波涛が砕けちり、その勢いに雪が舞い上がっていた。私はその景観に圧倒されてしまった。風の音と波の砕ける音が混じりあい、とてもすさまじい光景だった。私は近付けるだけ近づいてみた。波の飛沫と雪が同時に顔にかかった。ここで死んだら帰る所を探す必要もないと思った。それぐらい人の生を無視できるほどの世界だったのだ。
バスの時間に合わせてバス停に戻るとひとりの老人がいた。彼は私に煙草を勧めながら話しかけてきた。彼が言うには「仏ケ浦」は「津鼻崎」とは問題にならないくらいもっとスゴイとの事だった。彼は反対側に止まったバスに乗り佐井村へと向かった。
モアへ
材木でバスに乗ったら、後はどうなってもいいと思うようになった。どうなってもたいした事はない、と思うようになったのだ。旅の「発心」だった割り切れないもやもやした感情などが消えてしまっていた。当然のように大間で降りた。
モアに行くと、昨日の美しい女性が「あら!」という表情をして出迎えてくれた。もうひとり他の女性もいて忙しい時間帯である事を示していた。お客は昼食の客で賑わっていたのだ。私はひとりだという事もあって彼女の真ん前に位置することになるカウンターに座った。昨晩のお客と違って皆黙々と食事を口に運んでいるのだ。
私はコーヒーを頼んだ。しばらくしてカレーを頼んだ。しばらくしてまたコーヒーを頼んだ。なんか夢のようだった。ここのカウンターで食事をしてコーヒーを飲んでいる事が「つい最近まで継続していた」日常に思えてきたからだ。彼女は食器洗いに忙しくしていた。彼女がふっと顔をあげた時に話しかけた。
「船が欠航してしまって・・・」
「青森ですか?」
「ええ、青森に帰るんですけど・・・」
そう言った私の顔は幾分誇らしかったかもしれない。
「大変ですね・・・」
「今晩じゅうに帰れればいいんです」
これが、生きている内に二度と話しを交わす事ができないかもしれない彼女との最後の会話の全てだった。人生はそんなもんなんだ、人生はそんなもんなんだ、と自分に語りかけていた・・・
旅の終わり
本当に立ち去ってもいいのだろうか、という深い猜疑心とともに大間からバスに乗った。なぜなら「モア」で「アルバイト口ないですかね?」という一言ですべてが変わるように思えたからだ。
バスに乗る前に吉村昭の文庫本を買った。後はむつで乗り換え青森までバスで行くか、大畑で電車に乗り換えるかである。
本を読んでいたせいもあるが気がつくと大畑だった。大畑の駅が人が多いので何事かと思っていると、北海道で地震があって現在運休しているとの事だった。もっと大間にいればよかったと瞬間的に後悔した。昼の忙しい時間が終われば彼女の休憩の時間があったかもしれない。その時に雪は降っているが一緒に散歩くらいできたかもしれない、と深く悔恨した。痛恨の下北バスだった。
大畑線はしばらく後に走りだし、再度野辺地を経由し青森へ「帰った」。そして旅の始まりに乗るはずだった急行「八甲田」に乗り、今度は南へと向かった。この「わり切れない」気持ちを一生大事にしようと思った。この「わり切れなさ」を生きている間ずっと持ち続けようと思った。
福島を通りすぎるあたりから雪は消えていた・・・
27歳、北へ…下北への徒歩旅行 1 1981.3
発心
旅… 旅にとりつかれ出したのはいつのことだっただろう…そして、執拗に徒歩旅行に拘った。現在の時点で「最後の…」と言える徒歩旅行は下北半島への旅だった。
とにかく旅に出たかった。それも「悲惨」な旅をしてみたかったのだ。
その時の私はある「学校」で臨時講師をしていて、電気泳動法や生理学の講義を持っていた。また夜には研究を兼ねた教育機関にも行っていた。「学校」とは名前ばかりのいい加減なもので、試験などもなかったので私でも講師が勤まった。夜のほうは若い学生達に混じって、ぼんやりとはしていたがそれなりに楽しい生活を送っていた。
将来というほど具体的ではないが、「明日をどう生きるか」といったような卑近ながら漠然とした観念にとらわれ「学校」を止め、突然旅に出ようと思った。実は突然というほど突然ではなく、すきがあれば旅に出たいと思っていたのは事実だった。
その「学校」は目黒にあったが、その学校を辞めた足で目黒駅で東北のミニ周遊券を買い、富士銀行目黒支店にあった唯一の預金口座を解約し、旅先で住みついてしまってもいい状況をつくった。つげ義春がしたように「八森海岸をほっつき歩いたり」旅程と旅費の「さみしい計算」をしてみたかったのだ。だからつげのように、あるいは他の旅人のように北を目指そうと思った。
小さな時刻表とミニ周遊券と、ほんのわずかな身の回りの物と、スケッチブックを持って上野駅に行った。旅慣れていなかったこともあったが明確な計画もなかったので、最初になんとなく目的としていた急行「八甲田」には遅れて乗れず、2時間ほど後に出る急行「津軽3号」に乗り込んだ。「八甲田」は青森まで11時間、「津軽」では14時間かかるのだ。
夜行列車は乗る人も少なく、旅行者の態をした者などほとんどなかったのだが、なぜか興奮して眠れずにいた。時刻表を見て、最初に乗ろうとした急行「八甲田」が東北本線周りのため、東能代にはいかない事を知り苦笑した。北を目指し、青森を目指したものの、漠然とした計画の「八森海岸」へ行くには奥羽本線の東能代で五能線に乗り換えなければならないのだった。
夜になって吹雪になり、雪が車窓の内側に吹き積もるので、何度か席を換えたりしていた。
東能代
途中雪の中で長い時間停車していたが、車内放送などまったくなかったのでどうなるものかと思っていたが、やはり2時間遅れで東能代に着いた。そのために列車の中で急遽たてた計画らしきもののひとつである、11時45分発の五能線に乗ることができず、次の13時45分発を待つまで、駅前の食堂に入った。たった一つの計画が狂ったことに面白さを感じながらも、五能線に乗ったらどうしようかと漠然と思った。五能線に乗って八森海岸付近に行く事が目的で、細かい事は何も考えていなかったのだ。
ラーメンを食べていると店の人がたった一人の客である私に話しかけてきた。その人の話から、冬の東北の旅は宿泊先を確保していないとやっていないところが多いことを知った。それは困ったな、と思った。行き先もはっきりしていなければ、地名も良く知らないのだから・・・壁にかかった観光案内図を見ながら変わった駅名に気づいた。店の人に尋ねると「艫作」(へなし)と読むという。そこには日本海に突き出た黄金崎という岬があり、しかも不老不死温泉という名の温泉があるという。これだ、ここにしようと思った。考えてみれば「温泉にもこだわらない」(つげの作品に出てくるセリフ)といけなかったのだ。その店から電話し、やっているかどうかを確認し、宿泊できるかどうかとその値段も尋いた。
その店を出る頃には湿った雪も止んでいて、列車に乗る頃には日が差しはじめていた。五能線は地元の生活路線で、駅々での乗降客が結構多く、五所川原の病院へ行くという10歳位の男の子と母親と知り合った。母親は私を警戒してかあまり口を開かなかったが、子供は人なつこくクイズをして遊んだ。彼の最初の問題が「ボクの名前はなんてんだ」というもので、思わず吹き出したのだがおかげで彼のムラカミマサユキという名前は憶えてしまった。
確かつげも「オンドル小屋」の舞台となった八幡平の温泉場にいった時に病気療養している子供とその母親と口を交わしていたな、などど思っていた。
八森海岸に広がる日本海は陽を浴び想像していた暗さはなかったものの、あまりに人影が少ないため、風景に現実感がなかった。
艫作
艫作で汽車を降りた。
電話でおそわったとおり無人駅だったので、改札を通らずに線路に下り、今来た方向と逆に歩いた。都電以外のレールの上を歩くのは初めての経験であったし、まわりが全く音のない空間だったので、「これが旅情かな」と思った。最初の踏切を左に折れ舗道に入ると、少々急な湾曲した下り坂になっていて、そこをおりきったところにぽっかりと一軒の「家」が建っていた。入り口のガラス戸に「不老不死温泉」と文字が入っているが、たたずまいは畳屋の玄関先といった感じだった。おそるおそる中をのぞくと、結構人が行き来している。中に入ると「リアリズムの宿」とは全く違う、古いがよく磨かれた廊下をもった商人屋という感じだった。
通された部屋は宿屋というより下宿屋といった感じで、あたかも友人の部屋に遊びにきたような錯覚にとらわれた。聞くと、宿泊客はわたしひとりで、玄関先にいた何人かの人は「お風呂の客」ということだった。つまり銭湯を兼ねていて、しいていえばそちらの客のほうが多く当然地元の人ばかりだと言う。
つげに習って「散歩」をしようと玄関に出ると、履物は隅に立てかけられておらず(つげの場合は履物が立てかけられていて「脱走」できない状況だった)、下足箱から自分で出して、玄関を出た。来るときに通った道の先の方へ行くと、岩礁の並ぶ海岸らしき地形で、岩礁のはるか先に海が見えた。他には何もないし、人も誰もいない殺伐とした風景だった。海辺まで行こうと岩の中に足を踏み出したものの、風と寒さで前に進めるものではなかった。
波の音を聞いていると、足元に新しい空き缶が落ちているのに気づいた。洋菓子の空き缶らしく美しい絵が描いてあり、フタを開けると中もきれいだった。その缶に腕時計をいれ、大きな岩の隙間につっこみ大小の石で埋めた。その腕時計はある女性からもらったものだった。しかも、彼女が使っていたもので、彼女が腕からはずして私に手渡してくれたものだった。
風呂は地元の人々で賑やかだった。お湯はなんとサビ色で、見ようによっては黄金色にも見えるのでここから「黄金崎」という地名が出たのかと推測してみたが、尻込みしてしまって、浴客に尋ねることはできなかった。地元の人々の会話を非常に新鮮な思いで聞いていた。表情や語り口が実にいいものだったのだ。「ここに住んでみたい」とふっと思った。
リアリズムの宿での食事もイカだったが、ここもイカを中心にしたものだった。ただ違うのはたいへんうまかったのだ。つげも旅先でエビのうまさに感嘆していた事を思いだしたがどこでのことだったかの記憶がなく、意図的にしたとはいえ、つげの本を持ってこなかった事を惜しんだ。
食事の後窓を開けて耳を澄ますと波の音が微かに聞こえるのに気づいた。あたりは本当の真っ暗闇。わたしは「ひとりきり」という感傷を味わい、いままでのこと、これからのことなどを漠然と考えていた。そして、おいてきた「時計」が動き続けているだろうことが愉快で、ひとりで笑った。
翌朝、艫作の駅から五所川原行きの電車に乗った。まるで錯覚しているような、明るい日射しが満ちていた。窓からぼんやりと光る海をみながら、どこで降りようかと考えていた。この時はまさか下北半島を4日かけて歩いて回る大旅行になるとは想像もしていなかった・・・
陽をうけて 波を道連れ 五能線
青森へ
つげがしたように鯵が沢で降り、「床屋」を見物した後青森へ向かった。
青森駅で降り、改札を出たもののまさに「都会」で足を踏み出す勇気がなかった。東能代で親切に冬の東北の旅の心得を教えてくれた人の言葉を思いだし、駅に隣接している観光案内のカウンターへ足を運んだ。テーブルや壁にかかった地図をぼんやりと眺めていると、年配の親切そうな係りの男性が話しかけてくれた。最初の質問に私はドギマギしてしまった。最初の質問はこうだった。
「どこへ行くの?」
私は不審がられないように即答しようとした。眼前の地図には目立った二つの半島があった。ひとつの津軽半島は今通り過ぎてきた所だった。もうひとつの半島、「下北半島」の名を口に出した。
その人が言うには確かに冬は宿舎が少ないが3月になっているからそうでもない、という話しだった。彼は私の「温泉がある所」という希望を聞いてくれて、下北半島の下風呂温泉(しもぶろ)に電話してくれた。湯治場だからひとり客でも大丈夫との事だった。
下風呂へ
青森の滞在時間は30分だった。青森から野辺地へ行き、大湊線に乗り換え大湊へ行き今度は大畑線に乗り換え大畑へ向かった。大畑は本州最北端の駅だということであった。乗り換えにはどこもずいぶん時間がかかり、野辺地でも待ち合わせ時間が大分あったのだが、野辺地は吹雪であった。吹雪の経験がないせいもあるが、前も見られないくらいの吹雪だったのだ。
駅の売店でウイスキーのポケットビンとサイダーを買い停っている車両に乗り込み、吹雪を見ながらウイスキーのサイダーわりを飲んだのだが、吹雪は見飽きる事がなかった。
大畑から下北交通のバスに乗り下風呂温泉で降りた。
バスに乗った時はすでに夕方だったが、通学の子供たちや荷物を背負った人達でけっこう混雑していたものの、下風呂で降りたのは私ひとりだった。バスの停留所から舗装されていない昇り坂があり、その先に明かりが見えたのでそちらに向かうと2軒ほど小さな温泉宿が並んでいて、奥のほうが青森駅で教えられた「おおぎ屋」だった。
そこは細い廊下の両側に4部屋づつある、こじんまりとした宿だった。そこの女性が遅く着いた私のために食事を部屋に運んでくれた。なんでも井上靖の「海峡」という小説の舞台になった所だと言っていた。また、夏になるとイカ漁の漁火がきれいだとのことだった。食事を終え小さな硫黄泉に身を沈めて、非常に不思議な思いにとらわれた。東京を出てから2晩目にして、私の知人が誰も知らないような所で風呂に入っている自分が不思議でならなかった。
その宿では他の客には遇わなかったが、物音で他に客がいることは察することができた。また、宿の人も食事を運んでくれた女性以外誰も目にしなかった。風呂から上がると身の置き所に困った。昨日は旅のはじめての晩だったせいか感じなかった感情が出てきたのだ。さびしさと、やるせなさと、安堵感が混じった不思議な感情だった。宿の女性に声をかけて外に出てみた。
外はほとんど闇の世界で、まばらな街灯だけが雪の残る道を照らしていた。波の音に誘われるように、先ほど降り立ったバスの停留所の方へ足を運んだ。バスの通っている道の向こう側が海なのだが、波の音しか聞こえずバスの来た道を少し引き返すように歩いていった。ほんの少し歩くとまた昇り坂があり、少し先に湯煙が見えた。ほとんど闇に近い濡れた道を昇っていくと、もうもうとした湯煙が上がっていた。
源泉なのかと思ったら、地元の人の共同浴場で、湯の流れる音や桶のぶつかる音や、陽気な話し声などが聞こえてきた。羨望に近いものを感じ、さらに寂しさを感じて、元来た道を引き返した。
すでに灯をおとした玄関から宿に帰り、ひとつぽつんと敷かれた布団に身を入れると、闇であることもあってどうしようもない孤独感に襲われた。涙が出そうなほどの孤独感だったが、それがなぜか優しく感じた。
その寂しさがきっかけになったと思うが、下北半島を歩いてみようと思いたったのだ。
蛇浦へ
あくる朝、宿の女性が大間の商人宿を紹介してくれた。歩こうと意図していたものの、大間までどのくらいの距離があるものか分からなかったし、大間崎は本州最北端の地であるという事だったので、とりあえずバスに乗った。風が強いが天気のいい日で、中途半端な時間のせいかバスの乗降客も少なかった。
バスのアナウンスが「蛇浦」と告げ、その地名の面白さに降りる決心をした。蛇浦で降りたのは私ひとりであった。
海岸に沿った道をとにかく歩いて行った。一本道だしバスも走っているので不安も少なかった。海にとても近づく時は波打ち際までいったりした。そして、誰も歩いていなかった。
あるおばあさんが話しかけてきたのは郵便局の前を通りすぎた所で、そのおばあさんはそこから出てきた所だった。彼女は私が旅人だと思ったのだろう、どこへ行くのか聞いてきた。私は大間と答えた。彼女が言うには大間は風だけがきつい所だという。かなりながい間話しながら一緒に歩き、彼女の家の方角と分かれねばならなくなった時、彼女が家に寄っていけと言いだした。私も急ぐ旅ではないし、だいたい歩いているのだからと彼女の家の方へ向かった。
彼女の家は少し山側に入った前庭の広い家だった。私が彼女の言う通りに玄関で待っていると、彼女は魚の干物を袋にいれて持たせてくれた。わたしが旅の途中で焼く事もできない、と断ると今晩泊まる所で焼いてもらえ、と言う。私は丁重に礼を言いまたバス通りへと戻った。
大間崎
大間崎へ行くにはバス通りからはずれなければならない。道標がそれを示していた。とにかく誰も歩いていないので聞く人もおらず、不安ではあったがその道標に従うしかなかった。しかし、歩いていくとさらに風は強くなっていった。
突然視界が開け突端に出た。両脇と前面が海で小さな島があり、さらにはるかに大きな島が霞んで見えた。(これは北海道だった)「本州最北端」という石碑があり、その前にベンチがあった。私はベンチに腰掛け陶然としてしまったのだ。強風と開けた視界に陶然となってしまったのだ・・・しばらくしてスケッチブックを取りだしてスケッチを試みてみたものの実に他愛ないものだった。人間の行為全てが他愛なく感じられた。本当に心が白くなっていくようだった。
ずいぶんと長い時間が経ち腰を上げた。そのベンチがバス停のもので、バスは今のシーズンは通らない事を知った。誰も来ないはずなのだ。元来た道を戻るのもつまらないので、大間の町が見える方向へ歩いていくと、一軒の店があった。ずいぶんと自動販売機を探していたし、しばらく寒さを避けたいと思っていたが、自動販売機は全く無かったのでその店に入ってみる事にしたのだ。その店は開いてはいないようで、表のガラス戸にカーテンがかけられていた。
手をかけるとガラス戸が開き、声をかけると女性がびっくりしたような顔をして出てきた。その店はパンや雑貨や土産物も売っている店だったので、缶コーヒーが飲みたいのですが、と言ってみた。その女性は奥からインスタントコーヒーをいれて持ってきてくれたのだ。話しを聞くと、寒くて凍ってしまうので販売機は外には出さないとのことだった。わたしは立ったままで、熱いコーヒーを飲んだが、体中にしみわたった。予想以上に体は冷え切っていたのだ。
お礼のかわりに何か買おうと思ったのだが、ウインドケースには布がかかっていたし、子供のおもちゃみたいなものしかなかったので、コーヒーの代金を支払いたいと言った。彼女がいいにくそうにしていたので、200円を置いてきたが、後で少なすぎたと後悔したのだった。








