27歳、北へ…下北への徒歩旅行 2 1981.3
大間へ
大間崎を後にして大間の町へ向かったのだが、これがかなり辛かった。スケッチをして体を冷やしたのも原因となっているのだろうが、本当に足取りが重くなってしまった。バス通りからはずれてしまったので、バスに乗る事もできず、ゆっくりにしか近づいてこない波越しの大間の町の外形を疎ましく思ったりした。
気がつくと海岸が岸壁になっていて、そこが町だった。

表のバス通りをカーフェリーの船着場の方へ行った所に紹介された「なかしま」という商人宿があった。狭い港湾道路に直接面している事もあり、看板がなければ倉庫にしか見えなかった。若い男性が出てきて陽気に対応してくれた。蛇浦(実際には風間浦村)のあばあさんに頂いた干物を出すと「あれあれ」と言って実に優しい顔をした。部屋に通されたものの、夕方の4時頃でまだ風呂にも食事にも時間があったので外に出てみた。
町は信号のある丁字路を中心にしていて、その回りにいくつかの店舗があった。書店や食料品店や雑貨屋や衣料品店で、ここが漁業の町である事を想像させた。海に注ぐ小さな川に橋がかかっていて、その脇に小さなとりいがあり石段が続いていた。その狭く不規則な石段を昇って見た。町の全体が見渡せるのではないか、と思ったからだが、石段の途中から太鼓の音が聞こえてきた。
その音は頂上に近づくにつれ徐々に大きくなり、神社のほこらの中から聞こえてくるものだった。ほこらの前の板の階段を昇り、閉まっている板戸の透き間から中をのぞいた。そこでは10人位の中学くらいの若い男女が太鼓を無心に叩いていた。その集団の太鼓の音と、太鼓を叩く人達の真剣な表情にしばらくその場に釘づけになってしまった。私の子供時代にこんな事があっただろうか?そんな思いが羨望の感情に変わっていくのに時間がかからなかった。
石段を降り、バス通りを反対側にわたり、海側の細い道に入ると何軒かの店がならんでいて、そのなかに喫茶店があった。「モア」という喫茶店だった。中に入りコーヒーを飲んだ。つげも旅先のコーヒーにこだわっていた。

その店はひとりの若い女性がやっていたが、彼女が大変美しい人だった。店に流れる音楽を聴いたり、スケッチブックの手直しをしたりして、コーヒーをふたつ飲んだ。コーヒーを持ってきてくれる彼女はなんとも優しい表情をするのだ。なぜかそれが優しく、嬉しく、暖かく、実に立ち去りがたがった。
宿に帰り、一番風呂に入れてもらった。家庭の風呂となんら変わらないのだが、新しい石鹸やカミソリを手渡され、気持ちがよかった。旅をなりわいにしている人々を相手にしているだけの事はあると思った。食事は本当の家庭料理で、炊事場の隣に6人がけのテーブルのある食堂がありそこでひとりで食べた。
一家できりもりしているらしく、女性が何人かいてその中の中年の女性に、旅の目的や仕事を根ほり葉ほり聞かれた。目的も仕事も説明できる性質のものではなかったので、自分の説明が破綻していくのを感じていた。この次は、通常ここに宿をとる人と同じように、「仕事」で来たいと思った。また、「旅」を仕事にできるかもしれない、とも思った。
しかし家人との会話のおかげで、明日の宿と今後の日程まで決まった。彼らは絵を描くなら絶対「仏ケ浦」がいいといい、それには明日佐井村まで行きそこで一泊し翌日の下北汽船に乗るべきだと勧めてくれた。「仏ケ浦」は奇観だが船からではないと見られないのだと言う。すでに私はどうせなら下北半島の西岸を歩いて南下しようと思っていたのだが、彼らに言わせると佐井村から先は道が無いと言う。どうしても徒歩で行くなら内陸の山間部を抜けるしかなく、彼らに言わせるとそれは「難所」で安全は確保できないとの事だった。
そして、私の無謀な計画を阻止するかのように佐井村の民宿に電話をしてくれた。その時電話で私の事を「絵描きさん」と説明していたので困ってしまった。なぜならそれを証明するスケッチブックのスケッチは大間崎の一枚だけで、後は日記や散文で埋まっていたからだ。
晩飯の後再度モアにコーヒーを飲みに行った。それこそ嘘を繕うようにスケッチブックに架空の風景を描いたりした。夕方と打って変わってお客さんが結構入っていた。漁業関係の人が多いようで賑やかだった。私はコーヒーをまた2はい飲み会計をすませるべくカウンターに行った。すると彼女が私に話しかけてきた。
「どちらから?」
私はどうしても「東京から」と言えなかった。根拠のない後めめたさを感じてこう行った。 「今日下風呂からきたんですよ。明日佐井村に行こうと思って・・・」 彼女との会話はそれだけだった。
その晩、私がモアでアルバイトをして少しの間ここで生活するという幻想にとらわれてなかなか眠れなかった。モアの二階に間借りできるだろうか?とか、彼女は結婚しているのだろうか?夜に男性が彼女を迎えに来て、独り遅くまで店番する・・・などという想念が頭から離れなかったのだ。つげも作品「やなぎや主人」の中で、潮干狩に訪れたN浦の食堂に住み着いてしまう「妄想」にとらわれた主人公を登場させていた。
佐井へ
翌朝自分では早く目を覚ましたつもりが一晩最後だった。港湾労働をしているという他の人々は昨日私より遅く帰ってきて、今朝はすでに朝食をすませ出ていったという事だった。5、6人いるという彼らとは一回も顔を合わす事が無かった。私は食堂ではなく炊事場の中のテーブルで家の人と話しをしながら朝食をすませた。その朝食には蛇浦で遇ったおばあさんにもらった干物があり、実にうまかった。
昨日の6時間の歩行で自信がついた事もあり、今日は佐井村までの全ての行程を歩こうと思った。なかしまを出て、再度モアに向かった。漁業関係者がお客に多いのなら朝からやっているのでは、と思ったのだが店は閉まっていた。もう二度と遇えないかもしれないと思いながら、バス通りを佐井村へ向かった。
佐井村への道は海から遠くなる道がほとんどで、さらに海面よりかなり高い所の道ばかりだった。だから海は時々遠い所に見えた。
途中「材木」という小さな集落を通りかかった。バス通りから分かれる道があり、それがその集落に続く道でなんとなく足を踏みいれた。そのメイン道路と思われる道で、子供達が野球をやっていたのだ。男の子も女の子も、上は中学生くらいから下は幼稚園児くらいまで、総勢15人くらいでやっていた。私は脇の店舗で缶コーヒーを買い、その店舗の前の階段に座って野球をしばらく見物していた。なんとも楽しそうだったのだ。
途中のドライブインで昼食を食べたりして夕方には佐井村の民宿「やまこめ」に着いた。それまで民宿というものに泊まった事はなかったのだが、今度の旅で一番立派な家だった。奥さんがひとりでやっているようで、客は私ひとりきりだった。というより、私のために開けてくれたようだった。
例によって散歩に出て佐井港へ行ってみた。明日ここから下北汽船に乗り青森へ行くからだ。約3時間かかるとのことだった。佐井港はすばらしい夕焼けだった。
晩飯は20人位入れるだろう広間でひとりで食べた。奥さんがつきっきりで給仕してくれるのだ。百人一首の取り札が板になっているものが額縁にいれられていたり、アイヌ民族の衣装のアトゥシも飾られていた。なんでも庄屋だったので、北海道との交易品だったとのこと だった。
下北汽船
あくる朝起きると吹雪だった。やまこめの奥さんは私が聞くまでもなく、下北汽船に電話をいれてくれていて、一日1本しかないそれが欠航だと教えてくれた。私の計画はバスも終着であり先に道も無いというどんずまりで白紙になってしまったのだ。奥さんは私の計画の全てを否定し、バスで引き返す事を勧めてくれた。私は歩きたかった、 また、同じ道を引き返すのが甘受できなかったのだが・・・
結局奥さんの勧めに従ってバスで戻る事にした。ところがどこへ?戻る所などあったのだろうか?奥さんが言うには6時間ほどかければバスで青森市内まで「帰れる」という事だった。 私にとっては「青森」へ「帰る」という「現象」が魅力であり、その勧めに従うことにした。
奥さんはビニールレインコートを私にくれ、バスの停留所まで送ってくれた。そして、バスに乗った。痛恨の下北汽船だった。
津鼻崎
佐井村で乗ったバスの客は3人ほどだった。
私は窓外の雪を見ながら茫然としていた。なにをどうしていいか分からなかったのだ。私は材木というアナウンスに降車のボタンを押した。昨日出会った子供達が懐かしく思ったのだ。バスを降り、バスの停留所になっている小屋で簡易のレインコートを着て、町中の道に入った。誰もいなかった。家々も表を閉ざして いて、昨日缶コーヒーを買った店舗でさえ閉まっていた。誰ひとりとしていない町になっていたのだ。
私は歩いても1分とかからない集落のメイン道路を往復し、バス停留所の方へ引き返した。バスは常に一時間間隔であった。バス停の少し手前に「津鼻崎」という板の道標が立っていた。バスから降りる時には気づかない位置にある。観光用の道標には見えず、かなり貧しげな板の道標だった。私はその案内に添って昇りの細い泥の道を歩いて行った。しばらく歩くと今度は急な下りになっていて、着いた所は雄大な岩場だった。
赤いゴツゴツした岩場に波涛が砕けちり、その勢いに雪が舞い上がっていた。私はその景観に圧倒されてしまった。風の音と波の砕ける音が混じりあい、とてもすさまじい光景だった。私は近付けるだけ近づいてみた。波の飛沫と雪が同時に顔にかかった。ここで死んだら帰る所を探す必要もないと思った。それぐらい人の生を無視できるほどの世界だったのだ。
バスの時間に合わせてバス停に戻るとひとりの老人がいた。彼は私に煙草を勧めながら話しかけてきた。彼が言うには「仏ケ浦」は「津鼻崎」とは問題にならないくらいもっとスゴイとの事だった。彼は反対側に止まったバスに乗り佐井村へと向かった。
モアへ
材木でバスに乗ったら、後はどうなってもいいと思うようになった。どうなってもたいした事はない、と思うようになったのだ。旅の「発心」だった割り切れないもやもやした感情などが消えてしまっていた。当然のように大間で降りた。
モアに行くと、昨日の美しい女性が「あら!」という表情をして出迎えてくれた。もうひとり他の女性もいて忙しい時間帯である事を示していた。お客は昼食の客で賑わっていたのだ。私はひとりだという事もあって彼女の真ん前に位置することになるカウンターに座った。昨晩のお客と違って皆黙々と食事を口に運んでいるのだ。
私はコーヒーを頼んだ。しばらくしてカレーを頼んだ。しばらくしてまたコーヒーを頼んだ。なんか夢のようだった。ここのカウンターで食事をしてコーヒーを飲んでいる事が「つい最近まで継続していた」日常に思えてきたからだ。彼女は食器洗いに忙しくしていた。彼女がふっと顔をあげた時に話しかけた。
「船が欠航してしまって・・・」
「青森ですか?」
「ええ、青森に帰るんですけど・・・」
そう言った私の顔は幾分誇らしかったかもしれない。
「大変ですね・・・」
「今晩じゅうに帰れればいいんです」
これが、生きている内に二度と話しを交わす事ができないかもしれない彼女との最後の会話の全てだった。人生はそんなもんなんだ、人生はそんなもんなんだ、と自分に語りかけていた・・・
旅の終わり
本当に立ち去ってもいいのだろうか、という深い猜疑心とともに大間からバスに乗った。なぜなら「モア」で「アルバイト口ないですかね?」という一言ですべてが変わるように思えたからだ。
バスに乗る前に吉村昭の文庫本を買った。後はむつで乗り換え青森までバスで行くか、大畑で電車に乗り換えるかである。
本を読んでいたせいもあるが気がつくと大畑だった。大畑の駅が人が多いので何事かと思っていると、北海道で地震があって現在運休しているとの事だった。もっと大間にいればよかったと瞬間的に後悔した。昼の忙しい時間が終われば彼女の休憩の時間があったかもしれない。その時に雪は降っているが一緒に散歩くらいできたかもしれない、と深く悔恨した。痛恨の下北バスだった。
大畑線はしばらく後に走りだし、再度野辺地を経由し青森へ「帰った」。そして旅の始まりに乗るはずだった急行「八甲田」に乗り、今度は南へと向かった。この「わり切れない」気持ちを一生大事にしようと思った。この「わり切れなさ」を生きている間ずっと持ち続けようと思った。
福島を通りすぎるあたりから雪は消えていた・・・



