映画『悪童日記』
ハンガリーの生まれの原作者アゴタ・クリストフは「母国語以外で書く作家」とカテゴライズされる。それは、亡命や難民を意味する。
よって時として言葉が通じないことがモチーフになり、それはベルイマンの『沈黙』を想起させる。
フランス語で書かれたこの小説はフランスで文学賞をとり、何度も映画化が企画されたが、困難さの故に実行に移されなかったものでもある。
彼女の作品が映画化されたものには、他に『風の痛み』(小説のタイトルは『昨日』Hier)がありこれは2003年のイタリア映画祭のときに東京で上映された。
小説『悪童日記』は、国も都市もあきらかにされない。
ただ身近に「外国」の将校や兵士がいて、近くに強制収容所がある。そこに都会から疎遠だった祖母を頼って疎開してきた双子の男の子の話だ。
その軍隊が「外国」のものとしていることには二つの意味がある。
ひとつは主人公が子どもだから「どこの軍隊」ということに意味がないことと、普遍的に市民にとって「どこの軍隊」と分ることが実は意味がないのではないかと思わせるからだ。なぜなら後に「解放者」と呼ばれる別の外国の軍隊が来るからだ。
彼らは二人だからこそ生き残る術を模索し、体得していく。露悪的なエピソードは戦争の姿を伝える。そして双子の子どもたちの残酷さも特殊とは感じなくなる。
そしてそこに見えるものは市民の「戦後」だ。
国同士の戦争は「降伏」により終結するが、市民の戦争は終わらないのである。そしてその被害も簡単には消えないのである。
映画が原作と異なる大きな点は、都市名が明示されていることだ。
さらに「外国の軍隊」はドイツ軍の軍服を着ている。
また、原作では「牽かれ行く人間たちの群れ」と言っている人々をユダヤ人と明示していることだ。
原作者が意図しただろう、戦争は普遍的なものという視点を失っているという点で非常に残念であった。
しかし映画はたいへんな丁寧さで作られ、特に俳優の顔が素晴らしい。
そして、双子の男の子が原作のイメージにぴったりなのだ。
その二人は日記に真実のみ記すと決意するが、その意味は「感情の投影を排する」(翻訳者堀茂樹氏の表現)ことであり、それが双子の言動に一致するのだが、映画の双子の表情がまさしくそれなのだ。監督のヤーノシュ・サースはそれを表現したかったのではないかと思わせる。
例えばクルミをたくさん食べることと、クルミが好きなこととは違うと言う。なぜなら「好き」という語は精確さと客観性にかけるからだ。その表現形態が、あるいはその表現形態のみが「戦争」を記録するに資格があるように思わせる。
その表現形態における「戦争」では、親も同胞も教会も民族も意味を持たない。
ラストの別離の「客観性」は実に美しい。
1995年6月の来日記念講演で「母語」について次のように言っている。
「フランス語を、私は自分で選んだのではない。たまたま、成り行きによって、フランス語が私に課せられたのだ。私は、フランス語を母語とする作家が書くようにはフランス語を書くようにならないことを知っている。けれども、私は自分にできる最高を目指して書き続けるつもりだ。これは挑戦である。ひとりの文盲の挑戦なのだ」
母国語以外で書くことの意味に触れたいと思う。
純朴なハンガリーの出稼ぎ農民が、枢軸国の一員となり戦場に向かい対ソ戦争に巻き込まれる映画『ハンガリアン』(1977年ゾルタン・ファーブリ監督)も思い出した。
原題は小説の原題(Le Grand Cahier)と同様で、大きなノートという意味。
原題NAGY FÜZET(フランス語題Le Grand Cahier)
2013年ドイツ・ハンガリー合作ハンガリー語
この映画が東京でロードショーとして封切りされたのは原作人気の故だろう。
伊勢﨑賢治氏の集団的自衛権
国際NGOスタッフとして多くの紛争処理を経験してきた伊勢﨑賢治氏が「生活と自治10月号」に「勝負はこれから閣議決定にあたふたしない」というタイトルで集団的自衛権について以下のように述べている。
「恐怖と財源、利便性との兼ね合いで防犯は成り立つ。政治やビジネスは恐怖を利用する。不審者がいるからと必要以上に恐怖をあおれば思うように誘導できるし商売も成り立つ」
閣議決定の理由となった想定のいくつかが「ありえない」と言う。
「中国が日本を本格的に攻撃することは考えにくい。国際法上侵略は明確に禁止であり、大国である中国がそのリスクを冒すとは思えない」
「局地的衝突が戦争に発展するのは内戦を抱えているケース。内戦がない中で領土紛争が戦争に至るようなシナリオは考えられない」
「北朝鮮がアメリカに向けてミサイルを発射するという想定も軍事的にありえない。そんなことをすればすぐに米国に百倍返しされる」
「邦人保護も大変なのは当該国で分散している日本人をどう集めるか。護送船保護だけをとりあげるのは想定していないも同じ」
「NGOを自衛隊が警護するという発言に至っては、NGOの本来の意味をまったく理解していない。NGOは中立性が武器」
「閣議決定くらいであたふたすることはない。あれだけの戦争を起こし、世界に迷惑をかけ苦難を味わった日本人の歴史の記憶がなくなるとは思えない」
私には伊勢﨑賢治氏の思い出がある。
何年か前の外大祭で伊勢﨑ゼミで「平和構築の寸劇」をやるというので楽しみにしていたのだが、とうとう巡り合えなかった。
中止だったのだろうか?
国際NGOスタッフとして多くの紛争処理を経験してきた伊勢﨑賢治氏が「生活と自治10月号」に「勝負はこれから閣議決定にあたふたしない」というタイトルで集団的自衛権について以下のように述べている。
「恐怖と財源、利便性との兼ね合いで防犯は成り立つ。政治やビジネスは恐怖を利用する。不審者がいるからと必要以上に恐怖をあおれば思うように誘導できるし商売も成り立つ」
閣議決定の理由となった想定のいくつかが「ありえない」と言う。
「中国が日本を本格的に攻撃することは考えにくい。国際法上侵略は明確に禁止であり、大国である中国がそのリスクを冒すとは思えない」
「局地的衝突が戦争に発展するのは内戦を抱えているケース。内戦がない中で領土紛争が戦争に至るようなシナリオは考えられない」
「北朝鮮がアメリカに向けてミサイルを発射するという想定も軍事的にありえない。そんなことをすればすぐに米国に百倍返しされる」
「邦人保護も大変なのは当該国で分散している日本人をどう集めるか。護送船保護だけをとりあげるのは想定していないも同じ」
「NGOを自衛隊が警護するという発言に至っては、NGOの本来の意味をまったく理解していない。NGOは中立性が武器」
「閣議決定くらいであたふたすることはない。あれだけの戦争を起こし、世界に迷惑をかけ苦難を味わった日本人の歴史の記憶がなくなるとは思えない」
私には伊勢﨑賢治氏の思い出がある。
何年か前の外大祭で伊勢﨑ゼミで「平和構築の寸劇」をやるというので楽しみにしていたのだが、とうとう巡り合えなかった。
中止だったのだろうか?
宇沢弘文氏追悼文、内橋克人氏
内橋克人氏が「宇沢弘文さんを悼む」として東京新聞2014年10月9日の夕刊に書いている。
リーマンショック「恐慌」のとき、なぜ日本が被害国となったのかを怒りをこめて糾してこう言ったという。
「昭和大恐慌から80年。なおも金融・企業の反社会的行為はやむことがない。マネタリー・ディシプリン(金融節度)の欠落を断罪しない統治が大惨事を繰り返す。儲けるためには法を犯さない限り何をやってもいい、という考え方が資本主義の根幹にある」
(この発言は先に>紹介した書籍にも掲載されている)
経済学の使命を放棄した市場原理主義者、効率主義者らの仮面を容赦なく剥がしたという。
世界銀行借款による55年の名神高速道路建設の調査に加わり「過激なモータリゼーション」を理由にただ一人異を唱えた。
73年アジェンデ大統領虐殺のとき、フリードマンの流れをくむ市場原理主義者たちが「歓声」をあげたとき、宇沢氏は以後いっさいシカゴ大学とかかわらないと決め「アメリカなるもの」(パックス・アメリカーナ)に訣別したと言う。
TPPは社会的共通資本を破壊すると発言した。(2011年)
内橋氏はこうしめくくる。
「社会的共通資本を基軸概念とする「宇沢経済学」のあまりに崇高な倫理性をいま誰が引き継ぐのだろうか」
内橋克人氏が「宇沢弘文さんを悼む」として東京新聞2014年10月9日の夕刊に書いている。
リーマンショック「恐慌」のとき、なぜ日本が被害国となったのかを怒りをこめて糾してこう言ったという。
「昭和大恐慌から80年。なおも金融・企業の反社会的行為はやむことがない。マネタリー・ディシプリン(金融節度)の欠落を断罪しない統治が大惨事を繰り返す。儲けるためには法を犯さない限り何をやってもいい、という考え方が資本主義の根幹にある」
(この発言は先に>紹介した書籍にも掲載されている)
経済学の使命を放棄した市場原理主義者、効率主義者らの仮面を容赦なく剥がしたという。
世界銀行借款による55年の名神高速道路建設の調査に加わり「過激なモータリゼーション」を理由にただ一人異を唱えた。
73年アジェンデ大統領虐殺のとき、フリードマンの流れをくむ市場原理主義者たちが「歓声」をあげたとき、宇沢氏は以後いっさいシカゴ大学とかかわらないと決め「アメリカなるもの」(パックス・アメリカーナ)に訣別したと言う。
TPPは社会的共通資本を破壊すると発言した。(2011年)
内橋氏はこうしめくくる。
「社会的共通資本を基軸概念とする「宇沢経済学」のあまりに崇高な倫理性をいま誰が引き継ぐのだろうか」
