書評『帝国の慰安婦―植民地支配と記憶の闘い』その1
慰安婦に関しては二つの歴史がある。
ひとつは慰安婦が存在していた時代の歴史であり、もうひとつは慰安婦の存在が公になった時代の歴史、つまり慰安婦問題の歴史である。
この二つの歴史、そして記憶は慰安婦という歴史上に生じた事象を理解したり考えたりする上でたいへん複雑にしている。
また、私は慰安婦を考える上での視点として以下の三点を持つ。
「娘を売るという風土―家父長制」
「太平洋戦争(注)のはるか以前からあったからゆきシステムを作った業者」
「二重のマイノリティー―植民地人、女性、貧困」
さらに、それには前身があって、アイヌ民族や琉球の女性の災難と見事にリンクしている。
この「ふたつの歴史」と「前身としての観点の有無」によって、これを政治利用しようとする人々、支援者、否定者、それらの間で意見が合わなかった。
意見が合わないというのではなく、違った場所に立ち物を言うことが多かった。
朴裕河著の本書は、私の視点と多くの共通点があり、記述の根拠が明確でたいへん説得力のある本だった。
例えばアイヌ民族の子弟は搾取と収奪から陥った貧困の対抗手段として和人(ヤマト)に同化しようとした。朝鮮半島の人々が天皇の赤子、あるいは臣民となって「愛国的」になったことをそれと同等に見るべきだと思っていたし、それは第二次世界大戦期のヴィシー政権下のフランスや、ナチスドイツに協力したフランス人にも見ることが出来る。
そして植民地下(朝鮮、台湾)と占領下(中国、インドネシアなど)が違うことも明確にしたかった。
著者の、サンフランシスコ講和条約の相手国が植民地所有国であるため、当条約で植民地支配について言及されなかったという指摘は明確である。会議が「戦争」をめぐる会議で、その国々が日本と同じ帝国を築いた国だったからだ。
つまり植民地支配は合法という観点であるため、アジア女性基金の支給根拠が「道義的」となった経緯について述べそれを評価する。
無論河野談話は宗主国の態度表明として評価している。
さらに韓国憲法裁判所の判決を読み、日韓基本条約協定をちゃんと分析し、「韓日の財産及び請求権協定」「請求権資金の運用及び管理に関する法律」「対日民間請求権補償に関する法律」「ILO条約の強制労働条約」を解読し、田村泰次郎の小説『蝗』を参照し、当事者の意見、証言を丁寧に拾っている。
そしてこれらを根拠に行われた賠償、補償、慰労金なども丹念に追う。またそれらが韓国内であまり知らされていないことも言及する。
その中から、慰安婦は軍需品だったとし、慰安婦とは人間が人間を「手段」に使っていいとする「野蛮」を正当化した空間でしかないと指摘する。
「法」とは、一つの共同体が共同で守るべきとした規範である(略)「法」は共同体すべての人に「正義」となる内容であるべきだ。(略)誰が法を作る主体となるかによって、その正義の中身は変わってきた。性の売買を「常識」としたのは、そのことが悪いとは考えなかった時代の男性たちでしかないp.228
私は、「慰安婦は売春婦」と言って平然としている人々にその「常識」を見る。
売春婦の前提には人身売買があることは自明だからだ。
フランスのシャンソン歌手ジャック・ブレルが慰安所に並ぶ兵士のことを歌っているが、著者は兵士についてこう言う。
―戦場における兵士たちの性行動は、死という非日常を押し付けられた中で「日常」を取り戻そうとする切ない欲望の表出であって、一概に非難することはできないp.234
無論この性行動というのは強姦・輪姦ではなく慰安所に並ぶ兵士の行動である。
―自分にとっての(生きているという)「証」が、他者にとっては苦痛でしかない場合があることが忘れられている。慰安婦を兵士はそのように同じ国家によって動員された存在でありながら、そしてその「国家」が自国である場合は、同志でありながら、構造的に加害者と被害者となったp.295
日韓会談の目的は、反共のための友好的な日韓関係確立にあったと言う。
―この植民地支配を終えて20年もの歳月を経て作られた条約に、ひとことも「植民地支配」や「謝罪」の言葉がなかった理由は、これが帝国後の補償ではなく、あくまで戦後補償でしかなかった(p.281)
という指摘は鋭い。
台湾も含めて帝国主義の被害者という観点の欠落を指摘しているのだ。
運動の問題としてはこう言う。
―フェミニズムとポストコロニアリズムに基づく「国家」批判だったはずの運動を、批判対象を「日本」という固有名に限定したことで、慰安婦問題を「男性と国家と帝国」の普遍的な問題として扱うことを不可能にしたp.275
―否定者たちが「単なる売春婦」説にこだわるのは、対等でなかったはずの植民地人が「同志」だった記憶を消し去りたいような、朝鮮人と売春婦に対する二重の差別感情による、という分析も説得力がある。
私がずっと関心を持っていた労務慰安婦についても
―「企業慰安婦」として、基本的に日本の労働力を支えるべく動員した(p.284)と言う。
帝国主義、国家主義についてこう言う。
―慰安婦は表面的には軍隊の戦争遂行のためのもののように見えるがその本質は、帝国主義の人間を搾取して利潤を残そうとする資本主義にある。「戦争」はそのような経済戦争での妨害物を物理的に制圧し成功させるための手段に過ぎない。
日本の近代啓蒙主義者だった福沢諭吉が「娼婦の海外への出稼ぎは日本の経世に必要なる可し」としたのは、くしくもそのところを語ったp.285
―米軍も日本軍と同じく、戦時(朝鮮戦争、ベトナム戦争も含む)に強姦と輪姦を繰り返し、時に暴行後に殺した可能性さえも示している。
いつか韓国政府や米国が「彼女」たちのために国家補償をしなければならない日が来る(p.293)と言い、戦時性暴力が普遍的であり、この問題がけして国家間ではなく、韓国の基地村に関しフィリピンが韓国の抱え主を相手に訴訟を起こしたことがあるという(2002.10.17京郷新聞)
韓国の基地村で兵士の性欲の相手をさせられるのは、今やロシア、フィリピン、ペルーからの女性が多い。
―家父長制と資本主義に支えられた近代国民国家体制は、国家権力を拡張したり維持したりするために国家のために存在する軍隊を作り、住み慣れた場所を離れてその「境界を守るために」働く彼らを「慰安」する女性たちを作ってきた。日露戦争の日本人慰安婦も、太平洋戦争時代の朝鮮人慰安婦も、日本の敗戦後にアジアに駐屯し続けることになった米軍のための韓国人・日本人慰安婦、さらに遠くからやってきているそのほかの国の現代の慰安婦たちも基本的にはすべ国家や戦争あるいは戦争待機のために動員されている人たちであるp.294
―韓国は冷戦体制のなかで、アメリカの傭兵として「共産主義を防ぐ」という名目でベトナム戦争に参加し、過去に日本やアメリカがしてきたことをベトナムでした。(略)ベトナムは経済的理由でこの問題を公式には提起していないが、それは国家の暗黙的な合意によるp.296
という指摘は朝鮮人従軍慰安婦問題のこじれた原因とも思える。
東アジアはまだ冷戦のただ中にいる、と言う。
ゆえに慰安婦問題は続くとする。
そして、フィリピンなどに対する過去の植民地支配を反省しないまま、米軍基地は東アジアの冷戦構造を維持しながら、いまなおアジアに対する「帝国」として存在し続けている、と言う。
もし、本当に吉田証言を基にする「強制連行」「有形的外形力行使」でこの論議が混迷しているならこんな愚かなことはない。
吉田証言は斉州島だけのことであり、そこは日本の植民地であり日本であったわけだ。占領地とは基本的に異なるはずだ。
1月3日の産経新聞の対談の「河野談話」の注では
「強制連行の存在を示す政府資料が見つかっていないにもかかわらず、「総じて本人たちの意思に反して行われた」などと強制性を認定した。」
としている。
資料が不存在であることは当談話にも書かれているし、ここで言う「強制性」が日本の女衒集団の常套手段だった甘言、騙し、誘拐(村岡伊平次は騙して連れてくることを誘拐と言っている)だったことは文脈で分かるはずである。それを知っているから「強制連行を認定した」といわないで、一歩下がって「強制性を認定した」にしたのだろうか?
朝鮮半島出身慰安婦の証言(裁判での証言も含む)のほとんどは韓国人(の業者と思われる人物)にうまいことを言われてである。
著者は責任を問われるべきは韓国人業者であるとの指摘もしている。
しかしその背景にはそれによって資本蓄積しただろう日本人の姿も見る。
本書は慰安婦問題の基礎資料が集積している点でたいへん有意なものであると思う。
注 太平洋戦争という呼称では日米戦争のイメージが強く、大東亜戦争と言った方が中国も含んだ意味となりその方がいいという意見がある。しかし大東亜という言い方が共栄圏を連想させるので反発も多い。私としても「大」をつける呼称に抵抗がある。