解散選挙、理念なき国 | leraのブログ

leraのブログ

自らの文章のアーカイブと考えている

理念なき国

 解散選挙だと言う。

 集団的自衛権の憲法解釈も、特定秘密保護法についてもなんら有権者の意思を問わなかったのにである。
 集団的自衛権の憲法解釈に至っては閣議決定であり、国会も無視したのにである。

 さらに一票の格差が憲法違反状態にあり、合意に達したはずの定数削減を実現できていないのにである。

 かつての自民党の重鎮たちの安倍批判が聞かれる。
 古賀氏、野中氏、河野洋平氏などである。
批判は「独裁」「暴走」という言葉で表される。
 河野氏はその独裁を許したのは小選挙区制度だと言った。
 この制度の導入で、確かに国家観が変わったと私も思うし、同感の士は多いはずである。どう変わったのか…乱暴になったのである。粗雑になったのである。

 自民党が大敗したときと、自民党が圧勝したときの得票数がほぼ同じということから分かるように、操作できる選挙は民主主義の根幹などとはとっても思えない。
 『絶望の裁判所』の著者瀬木比呂志氏も以下のように言っている。
「選挙権の平等は国会に裁量権が認められるような事柄ではなく、(略)都道府県を単位として選挙区を決めることに何ら合理性も必然性もない」
 彼は「一票の格差判決」の裁判所の感覚の鈍さを批判し「(裁判所が)本当は乗り気ではなく、国民、市民の批判を受け国会議員たちの顔色をおそるおそるうかがいながらやっと重い腰をあげた」にすぎないと言っている。また最高裁ガイドラインがナンセンスとも指摘している。(同書p.122)

 暴走の片棒を担がされる投票者はいい迷惑だ。

 平川秀幸氏(大阪大学)がこう指摘している。(2014年11月27日朝日新聞論壇時評)
「財政逼迫や経済界のニーズを背景に、大学の研究・教育の内容を大きく変える『変革』が国から強く求められている」
 その結果、イノベーションへの貢献や実践的な職業訓練のようには社会的有用性が明らかでない、人文・社会科学系(潜在的には基礎理学もふくむ)の学問の存立が危ぶまれていると言う。

 昨今の大学のランク付けや、グローバル化という甘ったるい意味不明の言説の登場からある程度は予想していたが、やはりはっきり指摘されると驚く。

 平川氏は人文社会学についてこう言う。
「学問は私たち自身の経験の『意味』を解釈し理解するための資源。私たちは自分が何をしているか、その意味がわからないこと、『問題』そのものの存在に気づかないことがたくさんある。この気づきを促し、自分たちの行為が他者や自分自身にとってどんな意味を持つのか、各自が考える材料を提供する重要な資源のひとつが、人間の多様な経験の意味を考えてきた人文社会学の知である」

 社会的有用性がある学問とは、「金の臭い(匂い?)のする」学問のことかもしれない。
 人文社会学を否定し、社会的有用性学問のみを重用するとするなら、それは人間のロボット(労働機械)化ではないか?
 機械による人工知能は発達し、人間は労働機械化する。

 民意というものがあるかどうか知らないが、選挙で民意を問わず挙句の果てに人々を労働機械化しようとしている。
 SF国家のようだ。
 HALもターミネーターもすぐ近くだ。

 この国の理念ってなんだろう。

 少子化対策を見ると理念のカタチがわかる。
 少子化対策で最も必要なのは、女性差別の完全撤廃や女性の抑圧原因の除去なのに、それらには全く手をつけない。家事労働、家庭労働を軽視し「働きながら子育てができる」環境を整えるという名目で待機児童数の減少をもくろむのがやっと。
 地方自治体においては「集団お見合い」を企画する噴飯もの。
 少子化の原因は国の将来が見えないからだ。

 国の将来を見せること、それが理念ではないか。
 どんな将来を見せるのか?それは自分からなりたくてなった政治家の唯一の仕事だろう。
 ただ私は国家は支配・被支配だけの関係で理念などないと思っている。
 国家権力は支配維持に腐心しているだけなのだ。
 しかし国民国家を標榜しているのなら少しはミエをはれと言いたい。
 国民が国家を必要としているのではなく、国家が国民を必要としているのだから…