劇団地点『光のない。』
わたし、あなた、音、光、声、音符、楽譜、水…とメタファーの洪水のように思えた。
実はメタファーではなく、身近にありながら未知なるものの気持ち悪さではないかと気付いた。
その気持悪さ、その不気味さが恐怖に直結する。
なぜならわたしたちは、目で見て(光)、耳で聞こう(音)とする。
その世界には色々な人たちがいる。あなたも、わたしも、ヤマダとサイトウもアントノフも…
しかし、光も音もないところでは何もできない。
役者は言う。
「立ち入り禁止では音もつくれない」
「私たちが音を汚染したのか?」
ところが、舞台の「わたしたち」がまだ名前がないことが分かる。
その「わたしたち」とは…これがメタファーなのか?これこそメタファーではない恐怖なのか…
世界は環(わ)を弱くてつくれない、環(わ)をつくれないから連鎖もできない。
強大な力としての連鎖、あるいは「連鎖反応」が示される。
そして、それを示す彼ら「わたしたち」とは誰?あるいは何なのか?
放射能という人知の言葉では表せないものだ。だって「彼ら」自身が言う。
「まだ名前がないわたしたち」
プロローグに出てきたビニールコートの男が出てきて、舞台奥へ向かう。
その舞台はかつて「光」の差し込む所だったが、「窓」が開く。あたかも唯一の脱出口のように。そして、舞台上で横たわっている「もの(thing)」たちはこう言う。
「自由がほしい」
電気を下さい、という言葉からマイクが使える。そして、筋肉への電気刺激で鈴も鳴らせる。それは逆に電気がなければできないことを示している。不随運動の鈴にどんな意味があるのかを問わねばならない。
コロス(と言っていいのか)が素晴らしかった。
最初SEと思ったのだが、彼女彼らのハミングやヴォイスで、時として詠唱のように聞こえる美しさがあった。(音楽監督三輪眞弘)
そして、美術(木津潤平)。闇と光が織り成す迷宮のような舞台がシーンを作り上げていた。
原作はElfride Jelinek(エルフリーデ・イェリネク)のKEIN LICHT.で大震災と原発事故を受けて2011年8月に書かれた「戯曲」だが、水、泥、汚泥のイメージはそれこそ今を描いているように思える。(「戯曲」としたのは通常の戯曲とは全く異なった形態だからだ。翻訳者の林立騎は戯曲集のあとがきでこう書いている。―演劇の言葉が「話し言葉」であり「口語」であるというのは、日本語における歴史的誤解である。(略)哲学、歴史、政治など、他の分野との関連性を持つ言葉が、説明的に崩して翻訳されてしまい、翻訳劇の世界は多かれ少なかれ閉鎖的な空間をつくってきた。(略)演劇の言葉の歴史的使命は、既存の言葉を揺さぶり、新しい言葉をつくることである―)
また林立騎は題名についてこう書いている。
KEIN LICHT.はゲーテの言葉「もっと光を!」の原語であるMehr Licht!を踏まえている。それは、「光がなくなってしまった」という意味で原発事故後の計画停電や希望の見えない状況を表現しているだけではなく、「光はいらない」と読むこともできる。(事実、ケルン市立劇場が当初予告していたタイトルはKein Licht. Mehr nicht!でありこれは『光はいらない。もういらない。』と翻訳できる)そこには、「光」の見えない現状を嘆く気持ちばかりではなく、「もっと光を!」と求め続けた結果として今があるならば、むしろ「光」のない中にも見るべきなにか、聞くべきなにかがあるのではないかという問いかけが含まれている。
また、光線と訳したstrahlenは「光り輝く」と「放射線を放つ」を同時に意味するという。(本の中では「光-線」となっている)
そして劇中でもよく出てくる「声」という言葉は、ドイツ語のStimmeでこれは選挙の「票」も表す言葉だと言う。
演出の三浦基は演出ノートで日本のプロセニアム劇場の批判をしているが、それがポストドラマ演劇の基点になるかどうかは分からない。
ただ三浦が地点でやろうとしていることには触れられる気がする。
この「演劇」について谷川道子はこう言っている。
フクシマの原発事故をめぐるメディアを中心に語られる狂騒的な意味不明の多弁の「発語すること」と「聞くこと」の間。それを三浦基演出の地点の舞台は、音楽監督の三輪眞弘の作曲と拮抗して、ポリフォニー/コロス化した声と身体の演劇として、テクストの声や音がいったいどういう主体によってどう生まれているのか、「私」や「あなた」とは誰なのかを執拗に問いかけるものだった。(『演劇の未来形』p.241)
2014年10月11-13日
KAAT神奈川芸術劇場
