9日間(ドイツ映画祭の上映作品) 2006年01月23日
この作品では若者と初老の男性がキリスト教について討論をする時間が大半である。若者は神学を学んだ者で、もうひとりの男性は神父である。この二人の立場が決定的に違うのは、若者はナチス親衛隊の少尉であり、神父はダッハウの聖職者棟に収容されている反ナチ運動をした収容者、ということである。
神父は9日間の「休暇」を与えられ、ある課題を少尉から課せられる。逃亡すれば宗教者棟にいる同僚聖職者は殺されるし、家族は収容所送りになることは容易に想像がつく。彼の選択はひとつしかない。その課題を遂行することである。もしそうでなければダッハウに帰らねばならない。ダッハウに帰ることは、24時間宗教的な対決を時分としなければならないことを意味する。
若者は神学を目指したものの、宗教での世界変革の可能性に失望しより理想に近づけるナチス党に入党したと言う。そしてユダについて行動者であり変革者だと評価する。彼にはユダを評価せざるを得ない事情がある。
二人はローマ法王がヒトラーを祝福していること、教会がナチスの教会改革法に協力するべき、という2点にわたって論争を繰り広げる。
神父は数滴の水を独占したという罪悪感にさいなまれ、その中で自らの信仰の質と、それに対する行動へと対峙していく。試されているのは神父ではなく、ナチス青年であるのだ。
見る者は、国家社会主義がキリスト教義に基づいた政党であること知っているし、ユダヤ排斥にキリスト教が果たした役割も知っている。そして「神」が沈黙を常に守ることも…しかし、「神」の沈黙の中で繰り広げられる討論に救いを見出す事は出来るのであろうか?(監督フォルカー・シュレンドルフ 原題Der neunte Tag)
