映画「サラエボの花」 2007年12月10日
平和を吐く資格-サラエボの花
戦争の「テーマ」が“民族”になったのはいつ頃からだろう…国家元首同士で意地の張り合いをして戦争をしたり、領主と農民が生存権をかけて戦争したりした時代が終わってからだ。
“民族”を「テーマ」にした戦争は、逆に“民族”を作っていくと同時に“民族”を戦争に巻き込んでいった。ナチスドイツはアーリア人種と声を張り上げたし、日本は大和民族などと叫んだ。
そして、誰もが“民族”を説明できなかった。説明できない故か、その正統性を強調しようとし、今度は「宗教」が持ち出された。
いわく、「皇民」「神州」。それでも足らず家族的共同体を訴えようとした。赤子、内鮮一体…それらの馬鹿馬鹿しさが相乗効果となり、「神にかわりて不義を撃つ」などと狂気の沙汰としか言えぬ言葉を吐いて多くの人々を虐殺した。
これは開拓期(?)のアメリカが叫んだ「マニフェストディスティニー」の模倣かもしれない。
自らが「一体」だの「赤子」だのと言っていた“身内”をも虐殺した。沖縄、東京、広島、長崎、満州…そして、その虐殺システムの中で多くの人々を苦しめた。強制連行、慰安婦、学童疎開、飢餓…
“民族”を「テーマ」にした戦争は、民族浄化というシステムを編み出す。
サラエボ…冬季オリンピックが開かれ、その美しさに驚嘆したサラエボで、“民族浄化”が行われたのだ。現地語でエトニチコ・チシュチェーニェ。英語でエスニック・クレンジングと言う。
隣り同士で住んでいた人たちが殺しあうようになったのだ。
私はこの映画の紹介で「喉にささった骨に触る」と表現したが(後注)、そんな生易しいものではなかった。民族浄化の「思想」は民族的優位性を証明するために(?)レイプをする。
サラエボでは、組織的にレイプし、妊娠させるという「作戦」が実行された。宗教的に、あるいは時期的に堕胎できないことを利用した。ほとんどの戦争でレイプが起こった。『人間の條件』(五味川純平)にはそれがよく出てくる。また、中国大陸からの引き揚げ女性で望まぬ妊娠をしていた女性は“日本”の姿を見てから入水自殺をした。それは表に出ない悲劇となっている。サラエボでは、レイプが「武器」になったのだ。
「喉にささった…」などという生易しいものではない。多くの子どもが生まれたからだ。母親たちも語れない、まさしく現在の問題なのだ。
母親は度重なる組織的、集団的レイプの末に子どもが産まれることを自分の中で整理できない。産まれても会いたくないと思う。しかし、産まれた翌日に母乳が「あふれる」ことを体験し、一度だけ授乳しようと決意する。その時に見た赤ちゃんを見て「この世にこんなに美しいものがあることを知らなかった、思う。
娘はアイデンティーティーを求める。父親がいなからこそ尚それを求める。さらに、父親はシャヒード(殉教者)だと聞かされている。娘は現在の貧困からくる苦境の救いを父親の存在に求める。
少女にとってそれが誇れる唯一のことなのだ。
性的な営みは、喜びであったり、楽しみであったりするはずである。レイプは人間存在を根底から否定する行為である。それによって性的な営みがPTSDにしかならなかった人の人生をどう思うべきなのか?
これは一般的に「不幸」と言う。しかも最大の不幸だと言える。しかも、女性特有の、多くの男性が理解しようとしない「不幸」なのだ。さらに、女性が生活するために男性に依存しなければならない環境にあるなら、その「不幸」は胸の中に秘めなければならない。
母親は娘の存在の「整合性」を求められている。しかも男性との関係の再構築という大きな課題もある。触れば背中に拷問の傷もある。ふざけて娘が馬乗りになった時、バスで男性の胸毛を目にした時、自分では制御できない苦痛を感じそれは時として身体症状を伴う。
私には解消不能の疑問が山積している。
なぜ、内戦が起こったのか?NATOが介入し、しかもドイツまでもが加わり空爆をした。その後、その戦いは何をもたらせたのか?
映画が終わりエンドロールが流れる中で、私は体の中にとんでもないものが充満していると感じた。少しでも動くと、その充満したものが体のいたるところから噴出すように思えて微動だにできなかった。
そして、この作品が救いになるのか、と思った。
女性たちが集まって被害体験を語るサークルのシーンがプロローグとエピローグである。被害者が、被害者だけで集まり必死に生きようとしているように見えた。戦争の犠牲者は常に無力なものたちだ。
今、私たちが平和、戦争という言葉を使うときに、それが何であるのか、それに対し何ができるのか、を考えねばならないはずだ。
「民族」など「正義」など、すべて幻想である。大事なものは隣りの女性である。
世の中にどんな形容詞をつけようとも、肯定できる戦争はない。戦争協力もない。世の中で許されているのは自分を守ることだ。そして、自分の愛する存在を守ることだ。それは国家でも、組織でも、体制でもない。
軍というものを作り、組織だった暴力組織を作らなければ「守る」こともできないとするなら喜んで死んでいこう。少なくとも他者の幸福を破壊する権利は持っていないからだ。
作品には根源的な、絶対的な不幸がある。救いはあったのだろうか?
娘が修学旅行に行く。娘は母に小さく手を振る。
この親子には救いだと思う。また、救いはその母娘に対する監督の眼差しである。そこには絶対的な優しさがある。
しかし、私はそこに救いを見出してはいけない。その資格がない。
「平和」という言葉を吐く時、その言葉を吐ける資格が自分にあるのか、と常に問いたい…
