熊野・新宮の「大逆事件」前後 誤った死刑とその意図 | leraのブログ

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熊野・新宮の「大逆事件」前後
大石誠之助の言論とその周辺
辻本雄一著 論創社

 冤罪による死刑にはふたつの相があると思う。
 ひとつは「過った死刑」だ。
 イギリスもフランスも「過った死刑執行」が死刑廃止のきっかけになった。

前坂俊之著『過った死刑』(三一書房)には日本のケースが列挙されている。死刑判決の後に、あるいは死刑執行の後に真犯人が出て来たケースなどだ。
 敗戦後としては、藤本事件や飯塚事件などは「過った死刑執行」だろう。

 もうひとつは「意図的死刑」だ。
 小松川事件などは「誤った」ところから始まったものの「意図的死刑」の可能性が濃厚だと思われる。なぜなら真犯人のABO式血液型は判明しているのに、冤罪被害者で刑死した李珍宇の血液型は特定されていないからだ。

日本の法務・司法当局が冤罪による死刑執行を認めたことはない。認めたら死刑制度に大きな問題を惹起するからだ。

「意図的死刑」で著名なものはなんといっても「大逆事件」であろう。
大逆事件で刑死した人びとを追っていくと、その「意図」が分かるはずである。

大逆事件で刑死した大石誠之助の言論、思想、行動、交友関係を信じられないほどの丹念さで追ったのが本書である。

堺利彦の大石評はこうである。
「都々逸を作る、料理に凝る、細君の紋付の裾模様を考案する、風変わりな洋服を考案する、産科学の書、哲学や宗教の書を読む、文章も書く、演説もする、痛罵もする、冷嘲もする、皮肉も言う。いつでも嬉々として喜び、悠々として楽しんでいる」
都々逸の宗匠として禄亭永升という号を持つ大石の人物像が簡潔に紹介されているが、粋人で言論人で行動家であることが解る。

また医師として「ドクトル(毒取)大石」と呼ばれ、医療費は裕福なものにはふっかけ、貧者には請求しなかった。大石は慈善を平等の観点から否定していたので、「無請求主義」を通したのだが、それについてこう言っている。
「前の不納者でも快く治療してやり、過去の不足とか滞納を忘れるようにした。世の中の人は正直なもので、払える人は大概払いに来る。払いに来ぬ人は払えないほど貧困かそれ以上の事情がある。収入の歩合が伸び、なんら損失を被らないことが分かった」

ここでいう貧者とは主に被差別地域の人々のことで、大石の兄玉置酉久は高木顕明の浄泉寺檀徒の被差別地域の人びとを日雇いとして雇った。玉置が所属するキリスト教会の他の会員が被差別地域の人びとを屋根板職人として雇った時「新平民を職場にいれるな」と半鐘を鳴らしての差別行為があり、これを機に教会員と被差別地域の人びとの間で「虚心会」という融和的な会が作られたが、水平社宣言が出る十年以上も前である。

この「虚心会」が大石と高木顕明、そして教会牧師の沖野岩三郎を結びつけ大石の行動の中核になっていったようである。

大石は受洗しているとはいえ社会主義、高木は仏教徒、沖野はキリスト者とそれぞれ立場が違うし思想的にも異なるが、置娼運動反対、非戦、被差別地域への関わり、また種々の集会で人びとを集めておりその影響力は小さくないという共通項を持っていた。

すでに、それ以前に鉄道施設利権で資本家や政治家を批判していたこともあり、さらに置娼運動反対で資本家や政治家を批判し、貧者に寄り添い、若者に影響を与える人物は「危険」だったのだろう。

当時の民主・社会・平和主義思想に欠落していた女性の人権問題に着眼していた点「画期的なもの」(p.128)であったし、被差別地域への関わりも、権力や資本家の側からすれば目障りなものであったはずだ。

遊郭建議書の置娼理由に大石は遊客の検黴を提案しさらにこう反論している。
「一般の子女を保護すると言うが、良家の子女と貧家の子女を別物と見做し、前者の利益の為後者の人権を犠牲にすると言う冷酷なる金持本位説であって、これを説く論者と政治屋連は自己の階級に属するものの利害のみを考へ、花街の地獄に苦を嘗むる貧者と労働者の子女に対し一片の同情を有せず、其犠牲者に課税して金儲けをせんと言う。」(『牟婁新報』1906年)
 
このとき牟婁新報記者で置娼反対キャンペーンをはったのが荒畑寒村である。

新宮中学校生だった佐藤春夫が、自然主義的講演を中学でし、それが原因で無期停学処分を受けた。それに端を発し共同学資金使途不明金発覚によりストライキ事件(同盟休校)が起こるが、佐藤を感化した人物として大石が浮かび上がる。大石と成石平四郎は中学校を追及する演説会を開いたし、4年生200名は高木顕明の浄泉寺で会合を持っている。

『牟婁新報』の中学校追求は使途不明金以外に試験問題漏洩にまで拡大し、校長は同盟休校の原因として「社会主義者の扇動」「基督教信者の使ゾク」「牟婁新報の扇動」と公言した。

大石が、謀議をしたことになっている幸徳秋水と会ったのはほんの数えるくらいである。
天皇を「いただく」明治政府が排除を企図するほどの人物であったのだ。

また新宮という「どこかで演説会が行われている」土地柄との関係も興味深いし、後に関係者あるいは新宮出身というだけで弾圧を受けた人々についても触れている。また新宮出身の木村亨に関わる横浜事件との関係も切り離せない。
また中上健二の視点にも触れている。

「大逆事件」とは天皇制のひとつの利用法であったことが分かるし、その後の富国強兵策、膨張政策に大きな後押しになったことも理解できる。
 そして死刑があるいは天皇制が言論弾圧の有効なツールであることも再確認させてくれる。

いわゆる「新宮グループ」の人々のその後、大石誠之助(判決の6日後死刑執行)、成石平四郎(同)、高木顕明(獄で縊死)、峰尾節堂(獄病死)成石勘三郎(1929仮出獄翌年死亡)、崎久保誓一(1929仮出獄)