三里塚のシラー 過去ログ転載 | leraのブログ

leraのブログ

自らの文章のアーカイブと考えている

三里塚のシラー 2006年09月12日

三里塚の夏(1968) 日本解放戦線・三里塚(1970)

 三里塚(成田)闘争を短時間で語ることは不可能であるし、またその勇気もない。住民が全く知らない内に唐突になされた閣議決定、御料牧場、学生の支援、反対同盟の分裂、支援学生のヘゲモニー闘争と内ゲバ、十字路衝突での機動隊員の死亡事件…

 小川紳介の視線もそれを饒舌に語ろうとするものではない。実はプロローグとエピローグでバックに流れるベートーベンの第九交響曲「合唱」が小川の視点を語っているような気がする。

 かつて、ある評論者がそれを例にとり「小川はなんでもアリの人だった」と評したことがある。つまりドラマチックな演出を無定見にする、という批判的な表現だったと思う。

 しかしその評論者はシラーの詩が念頭になかったのではないだろうか?
 「人々の分かちを解き」というシラーの詩が小川の視点ではなかったか、と思わざるを得ないのだ。

 三里塚を物語るものはあらゆる階層の衝突であったと思う。あれほどの住民の反対を立法府や行政府は予想していなかったに違いない。
 それは農民に対する原初的な無視の姿勢であり、歴史的な差別心であったろう。なにせ農地解放から20年と経っていない時で、為政者は旧来の発想であり農民達は農地解放後の発想であったはずで、その衝突は新旧の日本の体制の衝突を代弁しているのだ。

 投石防御網を持った機動隊とピケ最前線の農婦が対峙しているシーンがある。その間は1メートルもない。そこでその農婦は目前の機動隊員にこう説得する。

「農民や女を傷つけてはいけない。悪い人になってはいけない。あんたのお父さんもお母さんも悪い人にするために学校を出した訳ではないと思う」

 その言葉は真摯な言葉で人の心に訴える。

 そこには農民の中でも苦労した女性達の本音がある。そしてそれを聞く機動隊員は紛れも無く若年労働者である。
 小川の視点のひとつが「あらゆる階層の衝突」にあったのではと指摘した。農村の過酷な労働の中でさらに底辺と位置付けられた農村女性という階層と実は同じ境遇の母を持つだろう若年労働者の機動隊員という階層の不幸な衝突に他ならないのだ。

 ある農婦は言う「結婚してからいいことなどまったくなかった。だから何も怖くない…」と

 農婦から「子供を産む女を、米をつくる農民を傷つけてはいけない」と言われつつも、彼女たちを排除しようとする機動隊との衝突は実に悲しい。私はどちらに対しても涙を流した。

 農村、農民、女性、それらのルサンチマンが想起できなかったことにこの悲しさと不幸があったのだと思う。

 ある農婦がいう「百姓をなめるな」この一言に全てが集約されているように思う。つまり実に長い歴史の中で虐げられてきた食糧生産者の叫びである。
 為政者達は十五年侵略戦争(太平洋戦争)の反省を全くしなかったし、責任もとらなかった。長い歴史の中で虐げられてきた農民達は農地解放ではじめて自分の言葉を持った。
 この両者の衝突は必然だったのかもしれない。

 さらに戦後に入植した開拓農民達。その中には満州(天皇制軍事国家が中国侵略の中で中国北東部につくった傀儡国家)からの引揚者もいれば、空襲で焼け出され裸足でここへたどり着き農民となった者もいる。
 彼らの言葉は為政者には届かない。
 眼前の若年労働者である機動隊員にしか届かない。(小川が映画にした故、私にも届くのだが、その意味は実に大きい)

 複数の階層の中で衝突が発し負傷者が出る。それに対して実に素朴な疑問が農民側から出る。

「同じ日本人なのに…なぜ?」

 部屋の壁にアキヒト(今上天皇)の婚礼写真を掲げている農家もある。

「同じ日本人なのに…」

 日本とか、日本人とかいうものが幻想であることを知る瞬間である。実はそのコトバが何の意味も持たないこともわかる。規制する側に有利な場合だけ使われるコトバである。そこにあるのは、命令に従わざるを得ない階層にいる不幸な人々(機動隊)と、積年のルサンチマンを言葉にし始めた農民の衝突だけである。

 「日本」「日本人」というコトバでおおきすぎる犠牲を強いられた十五年侵略戦争(太平洋戦争)から30年も経っていないのだ。

 ブルトーザーの前に90歳だという老人が出てきて、「反対」の旗ざおをツエがわりにして立ち、双方に語りかける。
 入殖し開拓し戦争があり、と100年近い自分史を語りだす。
 観客は、彼がこの不正と暴虐に対し湧きいずる言葉を獲得した瞬間の証人となる。その中でブルトーザー阻止を威力業務妨害とされた農民が逮捕される。その老人が逮捕されそうな農民と機動隊員の間に分け入って行き「収拾」しようとする行為はまた実に哀しい。

 言葉の虚しさを知るだけだからだ…

 小学校に通学する子供達がピケを張る農民の間から対峙している機動隊を二分し学校へ向かう。この異常事態を誰が責任をとるのだろう?その責任をとるべき人物は成田にはいない。

 「あらゆる階層」と言った。農民にも貧富があるし、労働力の有無の問題もある。貧しい農民や労働力を確保できない農民は農地を売却せざるをえない。
 当然であり、誰も批判できない。
 そこにまた別の階層が存在する。

 農地を売却した農民の中には空港公団に就業できる約束をとりつけた者もいて、その仕事は皮肉なことに、あるいは意図的に農民と対峙するガードマンであったりする。
 実に激しい悲しさ。
 彼らは裏切り者呼ばわりをされ、土をかけられるが、誰も(公団も警察権力も)助けようとしない。こんな悲惨があるだろうか…

「あらゆる階層」と言った。

 農地を売る脱落者の問題はコミュニティー破壊の問題に直結した。そして、コミュニティーというものがあるのかという根源的な疑義につながる。

 反対派農民は経済的な労苦も強いられる。支援学生の衣食住、農作業の遅れによる減収、それらは農家を直接的に打撃する。
 さらに測量、整地目的で買収済地域の生活道路(農道)が閉鎖される…常に権力側の「施策」は巧妙である。

 その中で弱い農民は農地を売ることを選択する。そして売った者はどこかへ去らねばならない。売った者が村十二分で葬儀も出せなかったという事実があった。

 コミュニティーなどあったのであろうか?
 敗戦前敗戦後、ともに日本にあったのであろうか?否である。真の自由のないところにコミュニティーは存在しない。

 闘争している農民達は、親族兄弟が反対派・賛成派に分かれることで悩むが、闘争している人々の間にコミュニティーを見出したように思う。
 そして「ここにいると、皆兄弟のように感じる」と言う。
 この言葉はシラーの詩を暗示しているようでたいへん印象的である。しかし、反対派の分裂や長すぎる時間による時代の変転で、「コミュニティー」と感じたものはどうなったのであろうか?

 この三里塚問題は現代性を持っている。

 扇千景大臣が羽田空港の国際空港化を打ち出した時にこう言った。

「成田は遠くて不便でしょ」

 このコトバに対抗する言辞を私は持てない。多くの双方の負傷者、死亡者を前にしてこのコトバを聞く耳を私は持てない。

 そして、あの時、つまり1960年代後期から70年代半ばにかけての三里塚闘争が激化していた時、私は何をしていたか?それは現在の発言の前提となる故に実に重要なのだ。

 私は大学生で遊んでいた。さらに三里塚のジョークを何回か言った。それに対しては自己批判も反省もできない。

 少なくともあの時、私は為政者側に立っていた。シラーも知らなかった。優しさもなければ、知識もなかった。無知であることが罪であることに気付いていなかった。

参考

 ベートーベンの第九交響曲「合唱」はよく年末に演奏されるので、著名であるが歌われているシラーの歌詞が著名か?というとあまり自信がない。

 ベートーベンはフランス革命に大変感銘を受けナポレオンにも未来の夢を見た。しかしナポレオンは戦争に耽りベートーベンの夢を破綻させる。

 そこでシラーの詩に感銘を受け、「合唱」を作曲する。シラーの「歓喜に寄す」という詩の意訳を記す。

おお友よ、このような音でなく、もっと快い、喜びに充ちた歌を歌おうではないか。

歓喜、それは神から発する美しい火花、楽園の遣わす美しい娘、

かつて神が人間を追放して、再び人間が楽園にもどれぬよう、楽園の東に置かれた炎の洗礼を受けて罪を許され、私達は、汝の至聖所に再び踏み入らん。

私達は、世の習慣が差別した人間の階級的在り方からも解き放たれて(人々の「分かち」を解き)、皆が兄弟(はらから)になる。

 シラーは、身分制度のある不平等な社会は誤りであり真の歓喜はそこから全ての人が解き放たれることにある、と詩にした。

 ベーヘトーベンはこの詩に「平等」と「自由」を見出し作曲したのだ。当時のオーストリアは当然専制王制国家で、シラーの詩を元にしたベートーベンの曲の演奏などできなかった。ベートーベンの秘書が歌詞の部分を隠し検閲を通し市民達の資金援助によって「合唱」は初演された。
 多くの人が命を賭して「合唱」を初演させた事実は胸に響く。

 自由や平等を希求する人々を止めることは誰にもできないのだ。

 1989年に東西ドイツの壁が崩壊したとき、バーンスタインの指揮により各国から選ばれたオーケストラでこの「合唱」が演奏されたが、その時歌詞の「Freufe(歓喜)」を「Freiheit(自由)」と読み替えて歌い、人々の胸を熱くうったというエピソードもあった。

注 日本語歌詞の「歓びのうた」はナンセンスである。

データ

三里塚の夏

監督 小川紳介

撮影 大津幸四郎

1968年108分

日本解放戦線・三里塚

監督 小川紳介

撮影 田村正毅

1970年144分