わたしの芝居論 | leraのブログ

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わたしの芝居論

 演劇と芝居の定義は省略する。
 ちゃんとできないと思うから。
但し、「芝居」は河原の芝生に座るというイメージであり、「それだけのもの」であるし「それだからこそ」のものでもある。
ヒッチコックが言った It’s only a movie に似ているかも…

 随分長い間漫然と芝居を観てきて、何に面白く思い、何につまらなく思うのかを考えた。ところがそれはそれほど単純じゃない。感性の問題ではないのだ。

 例えばソーントン・ワイルダーの『わが町』の商業演劇を観てとてもつまらないと思ったことがあった。
 それから二十年くらい経ってから同じくワイルダーの『グレートジャーニー』を学生演劇で観てやはりピンと来なかった。ところが、その芝居のポストトークで演出家がワイルダー作品の特徴として「何も起こらない、それがリアル」という話しを聞き、その芝居の面白さがやっと分かり、二十年前に観た『わが町』をも評価を変えたことがあった。
 これは自らの印象のいい加減さを証明するだけかもしれないが…

 また、知識の問題もある。
 例えば『るつぼ』の場合、マッカーシズムを知っているのと知らないのとでは大違いではないか。『オットーと呼ばれる日本人』の場合、ゾルゲ事件を知っているのと知らないのとでは…と思うのだ。
 だから逆に「不審」に思う芝居の方が興味を覚えるのは私ばかりではないだろう。
 それは、ワイルダーのケースと同様、後で「気がつく」場合があるのだ。

 私が芝居で重要だと思うのは、ストーリーでもセット・装置でも役者でもなく、暗喩だと思う。

 なぜなら人の心の虚(うろ)に触れるのが(舞台)表現だと思うからだ。
 多くの人の心の虚に触れる共通項など無い。だから暗喩が必要なのだ。

 人は自分の気付かない心の虚に潜んでいる蟠り(complex)に強く作用する刺激に感動するのだ。
 なぜか?…人生が自分探しの旅だからだ。

 誰も自分が分からない。
 自分のやることも、考えも、存在ですら分からないのだ。
 ただ悲しみだけが実体をもっているにすぎない。

 だからその悲しみに共振する暗喩に心が震えるのだ。
 落語の『お直し』で滂沱たる涙を流すのはその故なのだ。

 人は舞台に何を(観るではなく)見るのだろう?
 自分を見たいのではないか?
 自分が誰だか、自分が何なのか知りたいのではないか?
 知ることが意味のあることなのかどうかは誰にも分からないが…