カール・ヨネダの足跡 2007年08月17日
アメリカ共産党でアクティブな日系活動家だったカール・ヨネダに関するレポートが「トスキアナ 第五号」(皓星社)に掲載された。その中でヨネダが中濱鐵の写真や葉書を所有していたことを知って驚いた。
中濱鐵は1926年に死刑になったアナキスト詩人である。大杉栄を追悼した詩「杉よ !眼の男よ!」がある。
ヨネダが持っていた中濱の写真は25年の大阪地裁の公判の写真なのである。また葉書の一枚は死刑判決言い渡し日に書かれた辞世の句である。
「弥生空 魏櫓枕(ギロチン)高く 霞往く 黒蝶ぞ我 散る花に 舞う」
ここでのギロチンは古田大次郎のギロチン社のイメージもあると思うし、死刑そのものをギロチンと称していたのかもしれない。
そんなカール・ヨネダである。その足跡はすさまじいものがある。
父親は広島県出身でハワイ共和国へ移民した。
ハワイがアメリカに併合され「入移民法」でアメリカ本土へ移った時に生まれたのがカール・ヨネダである。ロサンゼルス郊外のグレンデールである。1906年7月15日。日本とアメリカの二重国籍であった。
1913年に日本の教育を受けるために父と帰国するが、父は死んでしまう。米騒動を目撃し新聞配達をしながら苦学生活を送り、ルソーやクロポトキンを耽読する。その当時日本に滞在していたエスペランティスト、エロシェンコに憧れたと言う。
そして日本を追放されたエロシェンコに北京まで会いに行ったのである。
旅費もなかったため下関や釜山で労働しながら奉天を経て北京にたどりついたのが1922年4月16日である。ヨネダ18歳である。エロシェンコと2週間をすごす。
北京から帰国後、労働運動に入る。広島印刷工組合、東京印刷工組合、広島ゴム会社争議、などらしい。
日本での兵役を忌避し帰米する。
米国籍の無い母はすでにできていた「排日移民法」により帰米することができず、さらに息子の兵役拒否で故郷を追われ、広島で被曝する。
帰米した彼はサンフランシスコの移民収容島で2ヶ月も収容され、その年にアメリカ共産党に入党する。
コミンテルン第7回大会のディミトロフ演説(反ファシズム戦線の指針となった)を、当時日本共産党が壊滅していた日本にエスペラント訳と英語訳を日本のエンペランティストに送ったのがヨネダだと言う。
太平洋戦争が始まり、マンザナー日系人収容所に収容される。その時ドロシー・ラングが撮った彼の写真が後に日系人補償(リドレス)運動の象徴となった。
彼は収容所から二世部隊に志願し、南方戦線で日本軍と戦う。山崎豊子著の「二つの祖国」の主人公の天羽賢治のモデルとなった。
戦後野坂参三のスパイ疑惑の特高資料を発掘しジェームズ・オダに引き継いだのは彼であるという。
UCLAに寄贈されているKarl G.Yoneda Papers(ヨネダ文庫)のBOX13は2015年まで公開されないと言う。このBOXはジェームズ・オダ文書である。
まさに20世紀の証人である。
