「教育再生」の再生のために 棄民化する子ども 現代思想4月号 その1 | leraのブログ

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「教育再生」の再生のために 棄民化する子ども 現代思想
4月号 その1



 現代思想はほぼ毎年4月に教育を特集するが、これは年代を追って読んでいくとおおきな意味があることに気付かされる。「悪化」の一途なのだ。


 今年は、佐藤学、大内裕和、斉藤貴男3氏の『「教育再生」の再生のために』という対談が興味深かった。



 この再生とは第二次安倍政権の「教育再生」をさす。

 まず前提として、公教育費のGDP比がOECD調査では最下位で、平均の三分の二にも至っていない事、教師の教育レベルの低下、親の教育費負担は世界最高、という諸事情がある。



 80年代から90年代にかけて国内生産現場が安い労働力を求め海外移転をした。国内に残ったのはサービス業ばかりで知識や技能は必要とされない。

 例えば、ハンバーガーを50個買っても「店で食べるか、持ち帰るか」と聞くマニュアル対応。



 1992年から2002年、産業社会からポスト産業社会へと移行 高卒求人数は激減。92160万人、200040万人、201210万人である。

 グローバリゼーションを前にして、すべての人々が社会参加を保障される社会を作るか、一部の人間だけが参加をして他は排除されていく社会を作るのかという分岐点に立ち、後者を選んだ。


 結果、低賃金労働、非正規雇用が増大し、社会にパラサイトせざるを得ない構造を作った。


 1995年日経連による「新時代の『日本的経営』」が出され、労働力の三分類という差別化が提案された。

「長期蓄積能力活用型グループ」

「専門能力活用型グループ」

「雇用柔軟型グループ」

 戦後男性労働者の主たる「期限の無い」雇用は「長期蓄積能力活用型グループ」だけで、大多数の労働者を「期限の定めのある」有期雇用に叩き落すというのが「新時代の『日本的経営』」であった。

 また、経済同友会が「21世紀の学校へ」で公共教育部門は三分の一にするとし、それを日教組が賛成するという体制翼賛に移行した年




 90年代に入り、「個性重視」「ゆとり教育」という名の新自由主義改革が始まる。多くの教育学者が教育の中だけの問題としてしまった。


学校五日制と「新時代の『日本的経営』」による労働力三分類は完全に繋がっていた。

「ゆとり教育」の内実は「公教育の縮小」で、出身階層による教育格差拡大を生んだ。



 90年代の教育における新自由主義改革は、実は教育の出口である日本型雇用の解体や労働市場の劣化と連動していた。そこに注目すべきだった。


自民党教育再生実行本部で言われていることは「教育の根本は家庭にある」。

本来教育は公のもの。社会が行うもの。

家庭教育が根本などと言ったら日本の子どもの半分は棄民化する。



90年以降の新自由主義を支えたのは過剰サービス社会と大衆意識による「利便性絶対社会」。コンビニの24時間化から始まった経済活動の24時間化。これは長時間労働、雇用の柔軟化、非正規雇用の増大を招いた。

過剰サービス社会とは、市場の全面化。

教育もその例外ではなかった。


受験ブームで受験産業は莫大な拡大。


これは教育にお金がかかることを当然とする大衆意識を生んだ。教育の私費負担増大は公教育の意味を曖昧化させた。経済力による「教育機会の不平等」を容認する結果となり、その対策が全くこうじられないことになった。


急速な貧困化がすすむなかで、第二次安倍政権の言う「家庭教育」重視が進めば、教育費を負担できる家庭の子どもとそうでない子どもの格差は決定的になる。多くの子どもが棄民化させられる。



重要なことは「教育の公共性」を「再生」させること。