プリーモ・レーヴィとは、誰なのか? 過去ログ転載 | leraのブログ

leraのブログ

自らの文章のアーカイブと考えている

プリーモ・レーヴィとは、誰なのか? 2007年05月07日




今年も4月末からイタリア映画祭が始まった。私は全く個人的な理由からこのイベントが役割を終えたと判断し、積極的な関わりを避けようと思っていた。ところが、今年からドキュメンタリーが3本加わり、それだけを一観客として観ようと思いたった。



 あるていど作品を認識していたとは思うが、極力事前情報に触れないという努力をしていたこともあり、1本の映画が始まった時に、それがプリーモ・レーヴィを扱った映画だと知ったときに体が震える思いをした。



 それはダヴィデ・フェラーリオ監督の「プリーモ・レーヴィの道」(La strada di Levi)という作品である。レーヴィがアウシュビッツから開放されトリノへ帰る10ヶ月の「旅」を丁寧に辿ったもので、監督自らもスクリーンに出てくるという思い入れの強い作品であった。それは2005年に撮られたと言う。レーヴィがアウシュビッツから開放されてから60年後であり、レーヴィが自死してから18年後のことになる。



 レーヴィが「帰宅」までに10ヶ月を要したのは、ソ連にとっては「敵国(イタリア)」のユダヤ人であったからかもしれないし、一時的な労働力として必要と思われたからかもしれない。あるいは、始まったばかりの「冷戦」の混乱のせいだったかもしれない。



 プリーモ・レーヴィに関しては2003年(2月5日と2月6日のETV2003)にNHKで放送された「アウシュビッツ 証言者はなぜ自殺したか・作家プリーモ・レーヴィへの旅」が心に残る番組だった。これは案内役が徐京植氏(そ・きょんしく)であり、彼が政治犯で拷問を伴う長期拘留に遭遇した二人の兄(徐勝氏と徐俊植氏)にレーヴィの姿を重ねたということが番組を深くしていたと思う。



 その番組には自死する年のレーヴィのインタビューがあった。



 1938年にイタリアでユダヤ人を排斥する目的で施行された人種法によって、大学の化学科にいたレーヴィは学友からも教授からも関係を「絶たれる」。彼はその差別と孤独の中で周期率表に詩的な美しさを見出す。彼がパルチザンに身を投じるのは必然だったのだろう。



 さらに「前夜」(影書房発売)2006年の5号6号に鎌倉英也氏の「証言者は二度殺される プリーモ・レーヴィと原民喜」が掲載された。レーヴィと民喜は悲惨な戦争を経験し、それを伝えることを使命とし、しかし自死したという共通点を持っている。しかも、レーヴィは「これが人間か」という詩を著し、民喜は「コレガ人間ナノデス」という詩を著している。



 その詩でレーヴィは「考えてほしい、こういう事実があったことを」と記し、民喜は「助ケテ下サイ ト カ細イ 静カナ言葉 コレガ コレガ人間ナノデス」と呻いた。



 プリーモ・レーヴィは著書「休戦」(La tregua)の中で、アウシュビッツで生まれて誰も言葉を教えなかったため、言葉を知らない3歳くらいの幼児について記している。そして、こう続ける。



「フルビネク(レーヴィらが便宜上つけたその幼児の通称)は1945年3月初旬に死んだ。彼は解放されたが、救済はされなかった。彼に関しては何も残っていない。彼の存在を証言するのは私のこの文章だけである。」



 レーヴィはアウシュビッツ強制収容所で、人間性を失わない術として「生きること、生き続けること」と自分に言い聞かせた。(「休戦」に関しては1997年にフランチェスコ・ロージ監督が「遥かなる帰郷」という映画にしている)



 映画「プリーモ・レーヴィの道」では、2005年のレーヴィの旅路、ポーランド、ロシア、ベラルーシ、ルーマニア、ハンガリー、スロバキア、オーストリア、ドイツ、イタリアを辿る。この道程はレーヴィは時には汽車で、時には馬車で、ほとんど目的地を告げられずに移送され続ける。その中で現地の労働者や戦争記憶者が出で来る。

 また、ドイツではネオナチの存在とそれに反対する市民も出てくる。



 レーヴィは1986年に西ドイツで始まる「歴史家論争」に出会う。それはナチスの犯罪を「歴史上生じるもので特別なものではない」という歴史修正思想であった。レーヴィは戦争という行為が「無知」と「積み重ね」の欠如から再び起こりうる人間の行為と見ていたではないか、と鎌倉英也氏は指摘している。(前夜6号p.221)



 レーヴィは著書「溺れるものと救われるもの」で自らの「生」を以下のように「分析」する。



「つまり最も適合したものが生き残った。最良のものたちはみな死んでしまった。(略)

友人は、私が証言を持ち帰るために生き残ったと言った。私は自分に可能な限り証言をしたし、そうせざるを得なかっただろう。そして今でも機会が訪れる限りは、そうし続ける。しかし、この私の証言がそれだけで生き残る特権を私にもたらし、多くの年月を大きな問題もなしに生きられるようにさせたというなら、その考えは私を不安にさせる。なぜならその特権と結果の釣り合いが取れていないと思うからだ。ここで繰り返すが、真の証人とは私たち生き残りではない。」

 ここにあるのは、「生き残った」やましさ、かも知れない。



 決定的な出来事は1982年のイスラエルによるレバノン侵攻であっただろう。世界はレバノンでの大きな暴力に直面した。レーヴィはイタリアの新聞にイスラエルのレバノン撤退を求めるアピールに名を連ねた。第一義の価値を民主主義に置き強く平和を求めるレーヴィとしては当然の行動だったが、それは彼を孤立させることになる。ユダヤ社会からも孤立したレーヴィが、言葉の無力さに直面しただろうことは容易に想像できる。



 鎌倉英也氏の言葉を借りると

……「国家」や「民族」のなかに閉じ込められて分断され、抹消されている記憶と言葉を開いていくこと、これこそが一度目の死から生還したふたり(レーヴィと民喜)の証言者を轢死させ(民喜は中央線で轢死した)、墜落死(レーヴィは自宅アパートのエレベーターホールへ投身自死した)させて二度殺してきたことを三度繰り返さないこと……(略:前夜6号p.223)

 

 平和を訴え、非暴力を訴えることで孤立する。レーヴィの絶望感を思うと胸がつまる。



 レーヴィが自死し20年。私たちはレーヴィの声を聞いたのだろうか?



 アウシュビッツ不存在論があり、南京事件否定論があり、アメリカでの原爆展中止があり、従軍慰安婦否定論、強制連行被害者・空襲被害者への戦後賠償の困難さ…歴史修正のすさまじい動きは枚挙にいとまがない。教科書検定はその完成を歌っているようでもある。



 プリーモ・レーヴィの墓には名前と生きた期間とアウシュビッツの6桁の囚人番号だけが刻まれている。その何も説明のない数字の羅列を、徐京植氏はこれらが考古学の中で、あるいは発掘された石碑になって語られる時に意味を持つ数字になるだろう、と言う。



 プリーモ・レーヴィは「休戦」の学生版への序文でこう書いている。



「私が経験する巡り合わせになった特異な体験、アウシュビッツの地獄のような世界、奇跡的な救出、死んだり生き延びた仲間たちの顔や言葉、再発見した自由、疲労困憊させられた、特異な帰還の旅、こうしたものが心の中で押さえ切れないまでにふくれあがっていた。私はこれらのことを語る必要があった。それらが悪夢のように、私の中だけに残らないようにすることが、私の友人だけでなく、万人に、なるべく多くの公衆に知らせることが重要に思えた。」



 プリーモ・レーヴィは、過酷な収容所生活を生きる延びるために、そしてアウシュビッツという環境で容易く崩壊する人間性を失わないために「生きること、生き続けること」を自分に科し、解放後は「伝えること、伝え続けること」を自分に科した。「生き続け、伝え続けること」を自分に科した彼が自死したことを、私たちはどう受け止めればいいのだろう?



 プリーモ・レーヴィと同じ貨車でアウシュビッツに運ばれた人は650人

 アウシュビッツ到着と同時にガス殺された人は525人

 強制収容所送りとなった人は125人

 生還した人はレーヴィを含め3人



プリーモ・レーヴィ、プリーモ・レーヴィとは誰なのか?



プリーモ・レーヴィとは、いったい誰だったのか…