SEXをすることの権利
SEXがタブー視されたり、公言しにくいようになってしまった理由はふたつあると思う。
ひとつは主に男性を主体とした搾取構造だ。
マルクスが婚姻は売春の一形態と言ったように、女性に仕事や収入や地位を与えないことにより、男性に依存せざるを得ない環境をつくり、半ば強制的に結婚しなければならないように強いるのは確かに搾取である。
結婚式の時にヴァージンロードなるものを歩み父から夫へ女を譲るのは人身売買の一形態を表していると言える。
もうひとつは宗教である。
キリスト教やイスラム教の場合、結婚前のSEXはほぼ認められていない。十戒にもある。楽しみとしてのSEXを全否定している。それはFGM(女性性器切除)に結びつくと私は思っている。
江戸時代、ワイルドな資本主義の下で女性性は売買の対象であった訳だが、江戸の町民の間ではSEXも恋愛も自由だった。つまり、恋とはその人とSEXをしたいという気持ちだったのだ。
SEX的に対等でない男女の恋愛などナンセンスだ。
しかし対等に近くなると『モテキ』の藤本のように「セックスする資格などない」と思う男性が出てくるのも事実だ。
高度に個人化した社会でのSEXは人口の増加を企図するという目的意識は失っているのだ。
この映画のテーマはSEXをする権利である。
それはSEXを楽しむ権利であるが、それが権利として確立しているかどうかという問題もある。
それがテーマとして明解になるのは、障がい者のSEXがテーマで、その障がい者がカトリック信者で、神父とそれについて常に論議するからだ。
彼はポリオの後遺症で首から下が動かない。
そして熱心な信者であることの理由を神のユーモアと確認したいと思うからだと言う。
そして、セックスセラピスト(映画ではセックスサロゲートという言い方をする。つまり代理人)を依頼する。
SEXを享受することはひとつの基本的な人権と考えられ、障がい者のそれは北ヨーロッパでは行政の公的なサービスのひとつだと聞く。
日本では「ヘルパー」と言っているが、行政とは無関係にそういったボランティアをしている人はいる。
彼マーク・オブライエンはセックスセラピストにより、女性との接触による射精を体験し、女性と性交することにより喜びを見出す。
その喜びはSEXだけの喜びではなく、生の喜びであり、人間存在としての喜びである。
そして、必然と思えるのだが、そこに愛が芽生えるのである。
SEXから愛が生まれるのである。
いつも相談にのっている神父が宗教的教義との狭間で悩むのだが、「愛は旅である」という結論は感動的である。
彼女がトイレのドアを閉めないシーンがある。
彼には、彼女の排尿の音とトイレットペーパーのロールの音が聞こえ、性的に興奮するシーンがある。
人間関係、あるいは愛人関係の獲得に思え胸が熱くなった。
とてもロマンティックな作品である。
THE SESSIONS
2011年 アメリカ
監督・脚本:ベン・リューイン
出演:ジョン・ホークス、ヘレン・ハント、ウィリアム・H・メーシー
参考
河合香織著「セックスボランティア
」
