デモ、テロ、天皇制
自民党の石破茂氏が「デモはテロ」発言があった。
この発言は驚くに値しない。初めてではない。
かつて60年安保の時、自民党の岸伸介は国会に集参する人たち以外に「後楽園球場に集まる人々」を指して「声なき声」と言った。確かに後楽園球場は安保闘争のさなかも大入りが続いていた。
つまり政府に反対する人は少数派、特異な人、危険人物と言いたいのだ。
選挙で過半数をとった政党と市民との間の齟齬が問題なのだ。
日本では政権政党は利益分配団体で、有権者は無思想、無意見、無思考になるのだ。
これは選挙制度が民主主義や主権在民を担保しないというあきらかな証左であるが、問題は別の所にある。
周りの一般市民に意見を求めてみよう。
意見を言う人が少ない事に気付くはずだ。
だから、石破や岸が意見を言う人間はテロリストになり、特異な人物になるのだ。
この理由を「内なる天皇制」に求める意見がある。
辛淑玉氏が「天皇制は思考停止装置」と指摘した。(『人権と報道連絡会ニュース』2013年11月25日号)
森達也氏は山本太郎の手紙事件について「天皇はタブーだという特権的存在をいつの間にか持つ。これが内なる天皇制」と言っている。(朝日新聞2013年11月27日朝刊オピニオン)
丸山真男は天皇制を「基層」と規定した。
「一木一草に天皇制がある」と言ったのは竹内好である。
つまり勝手に権力構造を作り、自ら作った権力だからそれに抵抗しようとしない、それに思考することすら拒否する姿勢だ。
それが「内なる天皇制」だ。
アメリカ合州国の子どもに大きくなったら何になりたいと聞くと「大統領」と言う子がいるが、日本で「天皇」という子は少ない。
すでに「なれない」事を知っているからだという。
ロシア革命の初期や、1960年代後半のパリ五月革命や、全共闘運動の主体となったのは学生である。
現在の日本の学生から豊富な意見が聞けるだろうか?
日本の学生たちは受験産業の消費者となることを義務づけられ、不当で理不尽な過当競争を強いられ、すっかりスポイルされてしまった。
これは「デモはテロ」「声なき声」に通底する。
つまり意見の無い人間は政権政党にとっては有益なのだ。
ミッシェル・フーコーは「試験は監視装置」と言った。
常に試験に追われ(なんとか学力テストも成績を公表するらしいし…)、監視されている訳だ。
特定秘密保護法で言論は萎縮し、日本版NSCでマッチョ化する。
思考する人間、意見を言う人間、異論を言う人間は邪魔なのだ。
映画『ハンナ・アーレント』の中でアーレントは「悪の凡庸さ」に対して、思考することの重要性を説いた。
セリフにこうある。
「『思考の嵐』がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」(日本語字幕:吉川美奈子、シナリオ採録:春日いづみ)