歴史は…作られる | leraのブログ

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歴史は…作られる



 『歴史は夜つくられる』名画のタイトルである。


 ある大学の准教授が行政から郷土史編纂を依頼された。


 フィールドワークをしていたら「慰霊碑」を見つけた。「慰霊碑」以外に何も記されていないので不思議に思い、調べてみると雑草除去などを公金で行っているので、行政にたずねると「全く分からない」という返答だった。


そこで、色々な人から聞き取り調査を始めると、戦争中に死んだ朝鮮半島から「徴用」された鉱山労働者のためのものであることが分かった。

 

そして、過酷な労働状況の目撃談や、そこから脱走した労働者を匿った話なども出て来た。さらに1970年代に整地工事の途中で大量に人骨が見つかり、それをそのままにした話しも聞き現在では小さな山を形成していることも分かった。



 その准教授が郷土史にその旨を記すと、恫喝をもって訂正を求められ、結局同准教授が同意しなかったにも拘らずその部分の記載は削除された。


 よって、「歴史は…つくられる」あるいは「歴史は…消される」


 北海道の市町村史でも「未開の地に最初のひと鍬」といった表現が多い。確かに農耕は最初だったかもしれないが、アイヌ民族について全く触れていない場合が多い。歴史は「自分たちの」と所有格を持つものなのだろうか?



 歴史教科書の選定問題がある。

 無償配布というば聞こえはいいが、意に添わない本は使わなせないという意思がある。


 そうやって歴史は作られたり、消されたりするのだから、多くの記述の違いを調べるという勉強の仕方が最も刺激的かもしれない。なぜなら国や地域が「消したい歴史」が分かるからだ。


 だからドイツとフランスが共同で歴史教科書を作るという作業は意味があるかもしれない。ドイツとフランスの二国が消したい歴史が分かるかもしれないからだ。



 漢字文化圏で共同の歴史教科書ができたら素晴らしいだろうと思う。

 歴史は国家の所有物ではなく、特に文化と両輪であるからだ。


ハワード・ジンは『民衆のアメリカ史』(当時ボストン大学教授)の中でこう言っている。



残虐行為を「進歩のための必要な代償」と安易に受け入れることはできない。 「歴史は諸国家の記憶だ」とヘンリー・キッシンジャーは彼の著書「回復された世界」に書いている。その中で彼は19世紀のヨーロッパの歴史をオーストリアとイギリスの指導者の観点から語り続け、この政治家どもの政策により苦しめられた幾百万の人々を無視している。


彼の観点によればフランス革命前のヨーロッパの平和は小数の国家指導者の外交によって回復された、という訳だ。しかし、イギリスの工場労働者やフランスの農民や、アジア、アフリカの有色人や、上流階級以外のどこの女性や子供にとっても、それは征服と暴力と飢餓と搾取の世界、つまり回復されたのではなく崩壊した世界だった。合衆国の歴史を語る際に、私がとる観点はこれと異なる。



我々は諸国家の記憶を、我々自身の物として受け入れてはならない、という観点だ。国家は共同社会 (コミュニティ)ではない。また、いまだかつてコミュニティであったためしはない。いかなる国の歴史も、一家族の歴史として表されるとき、征服者と被征服者との間の、激しい利害の対立を隠している。


そのような対立の世界、犠牲者と死刑執行人の世界では、アルベール・カミュが示唆したように、死刑執行人の側に立たない事が、物を考える人々の務めである。 歴史的観点を持つ立場を決めるとき、私はアラワク族(私注:コロンブス以後のスペ イン人の侵略により絶滅したアメリカ先住民)の観点からアメリカ発見の物語を、奴隷の見地から合衆国の物語を、チェロキー族の目から見たアンドルー・ジャクソン(私注:アメリカ先住民族を強制移住させる法律を作った大統領)の話しを、ルソン島の黒人兵士の目から見たフィリピン諸島の征服の物語を(私注:スペインと戦争したアメリカはフィリピンを征服し住民を激しく弾圧した)



「共通の利益」を口実に政策と文化を通じて一般民衆を国家という巨大なクモの巣にひっかけようとする政府と政府の企てについては懐疑的になろう。また、国家制度というワクの中に押し込められているために犠牲者達が互いに加え合う残酷さを見逃さないようにしよう。


私は犠牲者を美化はしないが次の言葉を思い出す。「貧者の叫び声は必ずしも正しいとは限らないが、それに耳を傾けないと何が正義であるかがけしてわからないだろう」


歴史が創造的な物であり、過去を否定する事なく、未来の可能性を予見するものであるとすれば、歴史はたとえ瞬時のひらめきであっても、民衆が抵抗し、団結し、時には勝利を得る自らの能力を示した、そういう過去のエピソードを明かにする事によって新しい可能性を強調すべきだ、と私は信じている。我々の未来は、過去の戦争一色の幾世紀かの中よりは、同情を感じる移ろいやすい過去の一瞬一瞬の中に見つける事ができるかもしれない、と私は思い、また多分見つける 事ができると希望するのみだ。 猿谷要監修


 


伊丹万作は「だまされる側の責任」と言った。