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書評『ドイツ文学者の蹉跌 ナチスの波にさらわれた教養人』関楠生著



ドイツ文学…忘れてはならないこと





芸術は沈思とイロニーへと進み、過去のテーマを繰り返しながら終焉する、と言ったのはヘーゲルである。彼の「予測」が現在進行形なのか、あるいはすでに達したのかは分らない。


もし文学が「芸術」なら、それも終焉に向かっているのかも知れないが、すでに過去の領域の中で語られるものなのかもしれない。しかし、ドイツ文学あるいはドイツ語文学に関しては、忘れてはならないことがある。ナチス党との関係である。




芸術家や表現者の戦争加担は普遍的なことだが、映画や文学の場合は市民に対する影響は大きいのではないかと思われる。ゲッペルスは識字率の低いドイツで最も大きな効果を上げるプロパガンダが「映画」だと喝破していた。


ナチスのニュース映画を模して日本ニュースを作ったことから映画の「貢献度」は高いし、少年に対する文学も「貢献度」は高かかったであろう。



 1933年選挙に勝利したナチス党はプロイセン芸術院文学部門会員に対し「変化した歴史的事情を認めた上で」会員に留まるかどうかを迫った。トーマス・マンとカルダ・フーフは返答を拒否し退会になった。ナチスは信望のあるフーフの退会を惜しんで翻意を促したがフーフは「このまま会に残ったら、末は強制収容所に送られる」と拒絶した。(親衛隊管理下の強制収容所は1934年から稼働)




ヘッセについては、1939年にナチス党から「好ましからぬ作家」として紙の割り当てを差し止められている。よってヘッセが反ナチズム作家であることは分る。ここで言われている「紙の割り当て」は物資難という理由で、紙の割り当てを制限したことで、意にそぐわない表現者に割り当てないことが多かった。これは日本でも同様で石川達三の『風にそよぐ葦』に詳しい。



トーマス・マンは亡命したが、ヘッセが第一次対戦非戦論でバッシングを受けスイスで執筆活動したのは亡命のひとつの形態だったのかもしれない。





問題は翻訳家の方にあるのである。

大御所高橋健二である。

彼は1931年『ハイネ』で「この愛すべき詩人」について評伝を書いている。ところが19337月の『頽廃に抗する文学』(東京朝日新聞寄稿)ではユダヤ系作家としてのハイネに頽廃の烙印を捺し、親ナチス・ユダヤ排斥のイデオローグとして活発な執筆活動を始める。だから1939年から刊行される三笠書房の『ヘルマン・ヘッセ全集』に彼が多くを翻訳していることは「不思議」かもしれない。




芳賀檀(はがまゆみ)1937年評論『アドルフ・ヒトラー』でヒトラー賛歌を歌っている。



「時代的な限界」で多くのドイツ文学者がナチスに迎合したのかというと必ずしもそうではない。京都帝大独文研究室編集の『カスタニエン』(1932年終刊)は亡命作家特集を編んだし、そのメンバーを中心にして創刊された雑誌『世界文化』は反ファシズムの信念に貫かれていた。そのために中心人物が治安維持法違反で逮捕され193710月に廃刊に追い込まれた。




高橋健二の変節を丹念に追った本書はたいへん説得力がある。

また、高橋の発表した文章を逐次分析し真意を推測する力は並ではない。その渉猟もすさまじいものがある。


高橋がハイネを訳し、ヘルマン・ヘッセを訳し、トーマス・マンの『ブッテンブローグ一家(家の人々)』を評価していた彼が、ハイネを批判しマンを批判するに至る変節は多くのことを示唆するのではないかと思う。

そして、大政翼賛会宣伝部長となる。



そこで思うのは心情も変節したのか?ということである。

翻訳は原作に愛着がなければできない作業だろう。

少なくとも高橋はハイネに関しては評伝を書き「愛すべき」と言っている。ヘッセの表だった批判はしなかったようだが、ナチス文学者を評価することの裏返しはヘッセに対する批判とも読めなくはない。


そんなに人間とは弱いものなのだろうか?



相良守峯は「そういう」趨勢とはかかわりなく研究を続け『中世ドイツ叙事詩研究』『木村・相良独和辞典』という高く評価される業績を残している。




本書に出てくるドイツ文学者の中で、私が高橋健二、芳賀檀、相良守峯の名前を挙げたのは私がこの三人が訳したヘッセの『クヌルプ』を持っているからである。



戦後の高橋健二の言質については触れていない。

「一億総懺悔」の中で逆に責任を曖昧にしたためか、彼は戦後も文学界に残っている。芸術院会員、日本ペンクラブ会長を歴任し文化功労者に推されている。




2007810日発行

中央公論新社