ピアノ…ミスタッチの心
クラシックは作曲者の意思を伝えることが第一義的だから、ピアノのミスタッチは致命的だと思っている。それに対してはふたつの問題がある。
ひとつは解剖学的に、あるいは運動能力的に不可能の場合だ。
オクターブ以上のキーや、飛ぶ時(何オクターブも一瞬で移動)のスピードだ。
そして暗譜の問題である。
リストの超絶技巧練習曲など、ああいった曲を暗譜するにはその曲に対する愛情がなければできない。つまり口で歌える必要があるということ。暗譜とそうでない場合とミスタッチ率は暗譜の方が少ないと思うからだ。
ところが、中村紘子氏が言うピアノコンクールの良きピアニストとは、ミスタッチをしないではなくもう一度聴きたいと思わせるパフォーマンスだと言う。早い話ミスタッチは気にならないというのだ。
これはビアニストとしての「先回りした弁護」かと思っていた。
ジャズの場合、ミスタッチは存在しない。
アレンジは自由だしアド・リブだからだ。
ミッシェル・ペトルチアーニのアルバム『ピアニズム』の一曲目The Preyer。右手でシングルトーンのラインを演奏するところがあり、3オクターブくらい音を「選択」して下がってくるのだが、「あきらかに」ミスタッチと思わせる音が1音ある。ライン選択はあるコードを基層にしているか、和声に反しないメロディーを構築しているかのどちらかであるからだ。
それがスラーではなく、「あきらかな」ミスタッチなのだが、ミスタッチではないのだ。
なぜなら、作曲者の意思を伝えるものでもなければ、楽譜に忠実である必要がないからだ。(もともと楽譜なんてないし)
余談ながら、それだったらセロニアス・モンクのピアノは全部がミスタッチになってしまうかというとそうではない。ラインにあるいは音と音の関係性に結びつきが感じられるからだ。
バッハの無伴奏チェロ曲には「アド・リブ」の部分がある。
演奏者が演奏前に「自分なりの解釈で」とか「二十世紀のテイストで」とか解説する場合がある。ところが、アド・リブの部分が聞き分けられないのだ。つまり、アド・リブの前後と違和感がないのだ。このアド・リブを理解するには多くの演奏者のものを聴いているか、自分が演奏者か、自分がアド・リブをどうしようか悩んだ人しかわからないのではないかと下司の勘ぐりをしている。
余談だが、私の友人に予習をする人がいる。
今年その人とショスタコヴィッチの五番を聴きに行ったのだが、自宅で違う指揮者や違うオケのものを何曲も聴いて予習してきたと言う。
こういう人は本当の音楽の楽しみを知っているのだと思った。なぜなら指揮者やオケの工夫が分かるからだ。逆を言えばミスも分かると思うが…
私などは一時の感傷(鑑賞ではない)で聴くだけだ。
だからガブリエル・モンテーロの試みは自然発生的なのだろう。クラシックピアニストも自由に弾きたいときがあるのだ。私は彼女の欲情に欲情する。
さて、本題に入ろう。
毎日新聞10月12日の朝刊で梅津時比古氏がケンプのミスタッチについて書いている。ケンプとはあのウィルヘルム・ケンプである。
ベートーベンのピアノソナタ「熱情」第三楽章のコーダで(高音からの駆け下りで、先のペトルチアーニと同じライン構造)筆者本人もいつもミスするし、コンサート活動している人でもミスをする、という話しからケンプにもかなりミスタッチがあるというのだ。
日本音楽コンクールの第一次予選に通過できないほどだと言うのだ。
ところが多くの人がミスするところではないところでミスをしているのだと指摘する。
これはケンプの1961年のベートーベンビアノソナタ全曲コンサートのライヴがCD化されたからだ。
彼が言うにはケンプは指で弾かずに「自身が構築した精神に基づいて」弾いているのであろうと言う。そして、「ベートーベンの曲が包含する思想的な枠組み」と「ケンプ自身の概念」を対峙させると「身体的にではない難しい局面ができる」と推測している。よってケンプは指にとらわれないのだとも述べる。
そして、7番第2の「ラルゴ」で、「ケンプが抱いているベートーベンへの崇敬と祈りもにじみ出る」ため、「たとえミスがあっても音楽の深さは傷つかない」とまとめる。
「いつも同じところで!!!」とミスタッチ恐怖症でピアノをやめた人、「誰でも覚えられるのに!!!」と暗譜不全症でやめた人、その必要はなかったのである。ただ、ベートーベンへの崇敬と祈りもにじみ出なければだめだが…
ね、やっぱり大事なのは音楽への、作曲者への愛情。