ドイツ語を学んでいる語学生たちが、「語劇」と称してモーツァルトの「魔笛」を演ると言う。正直言って驚いたし、信じられなかった。なぜならあの魔笛であるからだ。夜の女王のコロラトゥーラは好きだし、ザラストロの愛について歌うアリアも好きだし、パパゲーノとパパゲーナの「パ、パ、パ」も大変好きだからだ。
なんだかんだで年に最低1回以上は有料のステージを聴いている。料金の関係で、市民のものや学生さんたちのものが多いのだが、少なくとも彼女彼らはずっとやってきた人や音大生であり、たとえ音大生でなくとも音楽サークルでやっている人たちだった。
ただドイツ語をやっているというだけで、ドイツ語オペラ(実はジングシュピール)の「魔笛」を選んだんではないかと思ったのだ。さらに生演奏だと言う。どうもその先には不幸があるような気がした。ただ、魔笛が吹かれる可能性もあるかも、とも思った。(「魔笛」の魔笛は驚くほど超能力を持っていない)
問題があるとすると、人材であり、練習時間と場所であり、基本的な能力である。夜の女王のコロラトゥーラはソプラノの素晴らしさを伝えるに十分な技術を必要とするし、ザラストロのアリアはかなりの低音を要求されるし、パパゲーノはその人間性から演技力を必要とするからだ。それにコーラス…
その無謀さの故に具体化の中途で中止になると思っていた。
途中なんの情報も入らず、なんと開演の日を迎えてしまった。
前公演が遅れ、開演が1時間近く遅れた。信じられないぐらいの多くの人が並んでいた。その多くの人たちと不幸を共有するのも忘れ難い思い出になっていいかなとも感じる。しかし冒険を許されている若い人たちに挫折は味わってほしくはない。胸は不吉な高鳴りを続けた。
ステージはシンプルな作りで、大道具らしいものは無い。椅子が2脚あるだけ。しかし上手にアップライトピアノが置かれている。ブザーがなり、場内が暗転し、ステージライトが点く。
不自然なほどの長い沈黙があり、不安が現実になるのかと思った瞬間、ピアノが鳴り始める。なんと、オーバチュアである。当然省略するものと思っていたので、フイをつかれた。ピアノ一台でオーバチュアをフルで演奏した。その演奏で不安はやや消え、興奮する。ピアノソロは初めて聴いたが、いつ聴いてもいい曲だ。
大蛇とタミーノ登場。 大蛇は蛇踊りの張り子のような構造で、中に入っている人が見えるのだが、中に入っている人たちが就職活動スーツを着ているので、いかにもその辺を歩いていた人に頼んだという感じで、笑いを誘う。これは計算された演出に思え、そのしたたかさにやや安堵感が広がる。タミーノはやや緊張しているようだが、歌はちゃんと歌う。次に出てくる三侍女がたいへん安定していて驚く。歌も動きもスムーズで、この三侍女の存在がこの劇をする動機になったのかと思わせた。(ところが後で聞くと、この三人の内の二人は中国語専攻学生とロシア語専攻学生だった)
そしてパパゲーノが登場する。滑稽な鳥の被り物を頭に乗せ、舞台を動き回り陽気に歌う。それが観客の笑いを誘う。
次に夜の女王の第一のアリア。やや緊張で声量が小さいが無難にこなす。その安堵感からか観客から大きな拍手とともに掛け声がかかる。 モノスタトスも目立つのだが、タミーノとパパゲーノが交互に二役。よくできている。つまりパパゲーノが舞台にいる時はタミーノ役がモノスタトスを演じ、その他はパパゲーノ役がモノスタトスを演じるのだ。モノスタトスは黒衣に仮面なので二人で三役と気付かない人がいたかもしれない。それは、演者の人材不足を痛感させるものの、それが観客に対する刺激にもなっている。
僧侶が実に重厚な台詞を吐き、ザラストロは堂々としている。
そして、夜の女王の第二のアリア。これは先のものよりできがよく、終わった瞬間にやんやの拍手と複数の場所からの掛け声。 ザラストロの愛についてのアリアも朗々と歌い上げる。ちゃんと様になっていた。
パパゲーノが首を吊ろうとする前に、 「首を吊る前に、憐れんでくれるなら
Eh’ich ha:nge,noch erbarmen, 今度は私を好いてくれ! Wohl,so lass ich’s dismal sein!」
その後にこう問う 「言ってくれ、いいとか…ダメとか Rufet nur,ja-oder nein-.」
このセリフの後に 「誰も私のこと聞いてはくれない、まったく静かだ Keine ho:rt mich,alles stille!」
と続くので、ちゃんとした舞台ならその問いかけに答える観客はいないのだが、学友や先生がきているので答える観客がいるだろうと思っていると、客席から
NEIN!(ナイン NO!)
と声がかかったので、私はすかさず
JA!(ヤー YES!)
と声をかけた。
パパゲーノは予想していたのだろう余裕で笑いながらKeine ho:rt mich,alles stille! といいながら客席を見回した。多分楽屋ウケしたと思う。
そのパパゲーノが首を吊ろうとする木は、パパゲーナが茶色の布をまとい後ろ向きで立っている。その布を脱ぎ捨て前を向くとパパゲーナという発想は、大道具を省略するとともに、観客の緊張を中断させない工夫で感心した。またそのパパゲーナが愛らしく、滑稽なパパゲーノとの掛け合いで観客が喜ぶ。「パ、パ、パ」は合っているのか合っていないのかよく分からないところが、魔笛という芝居の隠れた意図で、隣の男性は一緒に「パ、パ、パ」と歌っていた。
何分くらいの舞台だったろうか…
おそらく90分くらいあったのではないだろうか。しかしスピーディーな怒涛の舞台で気が付いたら終わっていたという感じ。所々で観客の笑いをとり、飽きさせない。足裏を打たれたモノスタトスは突然日本語で「痛い、痛い」と言い「語劇だからって日本語をつかっちゃいけないってことはないだろ」と言って笑わせるし、パパゲーノは出てくるだけで観客が湧く。夜の女王はライトで光りを放つドス(匕首)を持ち、人々を恐怖の淵に追いやる。
演じる方も楽しんでいるようで、殺陣は歌舞伎のそれだったし、モノスタトスは完全にミエを切った。タミーノが魔笛を吹くときはバックステージから生のソプラノサックスが聞こえたし(なぜか一度だけだったが…)パパゲーノが鳥笛を鳴らす時はピアニストとの「掛け合い」がおもしろかった。わざと合せないピアニストにパパゲーノが抗議の視線を送るというシーンがあり、アドリブなのかもしれないが客席からは笑いが漏れた。
ザラストロの両脇の僧侶たちがイシスとオシリスのボードを持ったり、「女の諌言に」の所で僧侶たちが口に手を当てたりと、演出の妙を表現しているようなのだが、私がそれを感じる余裕がない。現に終わった瞬間にどっと疲れがきた。
カーテンコールがあっても客席の興奮が鎮まらない。
この興奮はとりもなおさずフツーの語学生たちが魔笛を演じたことにあると思った。実は観客も全員参加だったのだ。
『魔笛』が不思議なのは舞台を観終わってから台本を確認したくなるのである。全くのナンセンスだったらそうは思わない。そこにある暗喩を確認したくなるのだ。これはモーツァルトとシカネーダーの才能によるところが大なのだが、表現が自由でなかった時代に最大限に工夫された「言論の自由の行使」だと私は思っている。つまりシカネーダーのメッセージをちゃんと受け取りたいと思うのだ。ところがそれがなかなか受け取れないところもこの芝居の面白さになっているようだ。
おそらくオペラの中で(『魔笛』はジングシュピールだが)最も上演回数の多い演目ではないだろうか。あんな変な(?)ストーリーでこれだけ演じられることが不思議だが、ひとつにはモーツァルトの音楽があるだろう。時に世俗的であり、民衆的であり、時として孤高であり、時としてすさまじいスピード感があり、時として朗々とアリアを歌わせる。「モーツァルトに魅せられた者は、そのくびきから解かれない」のだ。
シカネーダーの才覚は、他のオペラと比較すればすぐわかる。軽妙で、難解で、惹かれる…そして(大事な事だが)退屈しない。モーツァルトとシカネーダーの融合は地球上の奇跡であると言える、と言ったらいいすぎだろうか…
『魔笛』のテーマはまさしく「愛」である。パミーナとパパゲーノのデュエットや、ザラストロのアリアでそれは分かる。
アマチュア演劇を長年観てきている。
いままでつまらない舞台を観たことは一度もないと断言できる。逆に商業演劇ではつまらない舞台をかなり観ている。それは料金のせいかもしれない。歌舞伎座の幕見、国立劇場の文楽、オペラシティのZ席、それらが1500円あるいはそれ以下で観られるのだ。よってそれ以外の商業演劇には厳しくなってしまう。
昨年星陵祭で観た「山椒魚だぞ」(横内謙介作)を観た時は、長年アマチュア演劇を観てきて本当によかったと思った。今回の舞台も長年観てきたからこそ出逢えた感動だと思う。
そこで思うのは表現という行為だ。 表現という行為は発現するもので、自然発生するものだ。そのヒントとして過去の舞台がある。過去の記憶をベースにして、現在の表現がある。私が折に触れ言うところの「記憶の連続」である。その連続はまさしく歴史であり、資産だと思う。
舞台芸術は中国やギリシャやローマを想起するまでもなく、人類の遺産である。しかも、そのエンジンはアマチュアにある。未来はそこにあるのだ…
作 エマヌエル・シカネーダー 音楽 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト,KV620 初演 1791年9月30日,ウィーン
2009年11月23日
東京外国語大学 外語祭 語劇(ドイツ語)
