私はコメディが苦手である。
そう言った場合、コメディの定義などせねばならないし、過去に色々な人が論じているだろうが、本稿は極私的なもののため一切の手続きを無視する。
なぜ苦手なのか?
語れないからである。
では、嫌いなのか?
好きである。
難しいのだ。
では、すべて語れないのかというと違う。
例えばバスター・キートンは語れるが、マルクス兄弟は語れない。シドニー・チャップリンも語れない。キートンが語れるのだから、スラッブスティックが語れない訳ではないのだ。
語ると言うことは、その表現に対し感想を連ねたりすることだ。
マルクス兄弟の場合は、構成がいいとか、スピーディーだとか、は語れるが、自分の内面にまで踏み込んだ抒情的な語りはできないのだ。
実はそれを語りたくて舞台や映画を観ているような気もする。
ややこしい人間なのだ。
どうしてコメディには語れないものが多いのか?
おそらく全て準備され、計算されているからかもしれない。
例えばニール・サイモンのThe Odd Couple ならポーカーにたいする男たちの心情について、なかなか複雑な男同士の友情について、など自分と重ね合わせて語れる。
チェーホフの『かもめ』だったら、登場するほとんどの人物に自分を重ねて語れる。
やはり、語れる、語れない、を言いだすと魑魅魍魎の奈落だ。
義塾の創像工房in front of.はメンバー200名を数える日本一の演劇サークルである。その人員が作る舞台は多くの点であらゆるものを凌駕している。
今回の『偽装結婚式』はたいへん構成力に優れた本で、スピード感もあり、落としどころもある。鍵は「勘違い」と「聞き間違い」であるが、それらの複合体をストーリーの中で結び付けるのはけして簡単なことではない。
スタッフ力もすごい。
出入りの激しい舞台で、場当たりの困難さを想像させるが、それを照明と音響と小道具と効果で支えており圧巻でもあった。役者はそれぞれの役を背負っておりブレがない。衣装の工夫や小道具のタイミングなど専属のスタッフがいるのだろう。
あえて言うなら、ストーリー結婚式の中で、ストーカーと結婚してしまうという強引なサゲがほしかった。ストーカーは「犯罪」なので、そうしなかったのだと思う…(演劇祭に参加している)
落としどころというのは、若い時にもっていた夢や、結婚というものに対するあるいは幸せというものに対する肯定感である。その前提には「結婚をしたかったはず」という前提があるが、連れ合うということと、婚姻という法律行為と、結婚式という儀式に対する分類、分析ができていない。
これはけして批判ではない。
だから良質の明るいコメディになっているのである。
終幕の後の爽快感は素晴らしい。
また、主役の城築創はその真剣さと動きで熱演であった。彼に対峙する小川千尋も幅の広い芝居でアクセントをつけたし、脇役陣がそれを支えていた。脇役陣はちゃんとウケができていて、セリフがないときも舞台を作っていた。無駄な動きと無駄なセリフがない本当によく「計算」された舞台で好感が持てる。
これは、「ただ観て笑って楽しむ」という、演劇が本来持っている姿なのだ。
歌舞伎で『盟三五大切』の後に、あかるい舞踊が入る。すると『盟三五大切』への思いが拡散していく。歌舞伎はそれを計算してある。
かつて寄席で怪談噺をした後半に「おとし話」をすると聞いた。
それは電気の無い時代外は真っ暗である。そんな中で「怪談」を引きずったらお客さんが可愛そうという発想だと言う。
コメディで語れないといいつつ、語っている自分がここにいて、これこそコメディ?
29日まで、中落合の「シアター風姿花伝」にて
作・演出:中村允俊
