映画『ヒミズ』
この作品に関しては感想をあまり書きたくなかった。
上から目線で分析的な言辞を弄するような気がしたからだ。それでは作品を矮小化してしまうような気がしたのだ。つまり自分に自信がなかった。
ただ、子どもの貧困率が17パーセントを越え、OECD内で最高であり、公金から手当される教育資金の金額がOECD内最下位という現実があった。実際に学校給食が唯一の栄養源で夏休みに入ると飢餓の可能性があった中学生を実際に知っていた。
また、秋葉原事件のような通り魔的犯罪でありながら、あきらかに従来の通り魔犯罪とは異なる「社会」に向けた憎しみ犯罪に対する説明がほとんどできない現実において、この作品との関係を述べることは自分にとっても現況の確認になると思った。秋葉原事件を佐々木賢は『現代思想』の四月号で「就活他殺」と言っている。
そして、貧困が連鎖し、湯浅誠がいう五つの排除…教育課程からの排除、企業福祉からの排除、家族福祉からの排除、公的福祉からの排除、自分自身からの排除…を目の当たりにするとこの作品の存在価値が分かるような気がするし、3・11震災の復興が全くなされていない社会構造的体質についても考えが及び、それらはこの作品の背景の巨大さを代弁しているようにも感じたからだ。
原発事故がおき、いかに政府が住民を守らないかは『それでも彼女は生きていく 3・11をきっかけにAV女優となった7人の女の子』(山川徹著)が立証した。この本では「娘身売り」がまだ続いており、戦後復興は福祉を家庭と企業に負わせ公的負担を軽くしたため、非常時にとても弱い社会をつくったという。そして脱落者が「自己責任」を問われる。「家族」と「企業」が壊れた後の社会を分析している。
また、消費者かどうか、あるいは企業経営執行者かどうか、しかない「超進化」した資本主義社会の現像の不愉快さが全身に蟠っている気持ち悪さに耐えられないからでもあろう。
消費者の対義語は寄生者であり、企業経営執行者の対義語は労働マシーンである。また、寄生者やマシーンからの脱却は「教育」が必要なはずなのに、その可能性をわざと狭め既得権確保に躍起となる国家指導層の不愉快さにも耐えられないからだ。
しかもその「教育」を商品化し「教育」が権利とならず、教育が受けられないと寄生者かマシーンの道しかないと諭す脅迫資本主義者の物言いが空恐ろしいからでもある。教育ローンや貸与奨学金で「教育」は金融資本化し、夜の九時すぎに塾帰りの小学生がマクドナルドの袋を持って地下鉄で居眠りしている図がおぞましいからでもある。
ところが居眠りしている小学生は塾に行かれるので恵まれているのだ。それが「おぞましい」と感じるスゴサはもう言語にできる世界ではないのかもしれない。
少子化、晩婚化、未婚化の中で少子化大臣が何をやったか…記憶している人はいるのだろうか?
こんな不愉快な社会に対し物を言わないのは、私も含めて既得権の中にいるからだ。物を言うべき対象者は物を言う能力も場も持たない。そして誰も聞かないだろう。
ここから生まれるものは危険と憎しみと怒りだ。
そして論理性の無い暴力だ。
なぜ論理性がないのか?自己で規定した不幸ではなく社会構造としての不幸だからだ。
怒りの行先は国家や政府などへは向かわない。その手段も「資格」もないからだ。
多くの怒りは「カテゴリーとしての対象」を探す。カテゴリーとは「秋葉原に集まるやつら」「名門小学校に群れるやつら」である。そして怒りは、自らの怒りを鎮めるのではなく、対象の怒りを引き出すことが目的になってしまう。
子どもの貧困対策にしろ、震災の復興対策にしろ、社会福祉・生活保護問題にしろ、国が市民に押し付けていたツケが回ってきた醜さに耐えられなくなってきているのだ。
残された時間で「人のためになる」ターゲットを探す光景は、映画『タクシードライバー』を連想させたが、原作には「まるでデ・ニーロのよう」と吹き出しとして出てくる(第19話「山へ」)。「人のためになる」ことが唯一の存在証明になってしまうのであるが、その手段も方法も「資格」もない。なぜなら「排除・疎外」されているからだ。
映画製作中に3・11震災が発生し、シナリオの大幅な変更がなされ、震災被害者が登場するようになった。ところが原作のテイストがほとんど変わっていないのは驚異だ。喪失者、あるいは被排除者としての「群れ」なのだ。
私は未来を予想する。
少年法や刑事訴訟法が改正され、触法少年や虞犯少年は教育刑ではなく隔離刑になるであろう。ゲートシティが普通になりそこで生活の全てが賄え、社会は二分化し閉塞し、業田良家の描く『ロボット小雪』の世界が現出するだろう。法人資本家は「グローバル化し」、タックスヘブンを求め、安価な労働力を求め、環境規制の甘い国を求め、独裁者のいる地域を求め、海外を転々とし、下流喰いのみが蔓延るだろう。
原作と映画はラストで決定的な違いを見せる。
この「違い」は3・11後の世界だからだろう…
がんばれ住田
がんばれ住田
がんばれ住田
この言葉が誰かのエールに成り得るのだろうか?
この連呼が耳に残って離れない…