映画『千羽鶴』 | leraのブログ

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映画『千羽鶴』


脚本新藤兼人、撮影宮川一夫である。誰でも魅かれる。

ところが原作と色々なところで違うのだ。


新藤脚本は父と愛人(小暮実千代)、その息子(森雅之)と娘の(乙羽信子)の複雑な心理を中心にしている。つまり森の父親が母親以外の女性を好きになりいりびたる。その女性は未亡人で夫は森の父親の友人で、死ぬ時に妻と娘を託される。

森から言わせれば母から父を奪った女になり、乙羽から言わせれば不適切な関係に嫌悪している。さらに森の父親の前の愛人(杉村春子)に妬まれ苛められる。

森の父親が死んで8年目に茶会で森と小暮が出会う。会うことじたいが2回目である。この茶会に小暮は娘の乙羽を同行している。


川端康成原作では、この茶会の後に森と小暮は情交するのであるが、これが信じられない。小暮は45歳で森は20代半ばであり、ほぼ初対面なのだ。本来この二人がどういういきさつで情交に及ぶのかたいへん関心があるところであるが、川端原作は一切触れない。はっきり言って不思議。

新藤脚本は情交をちゃんと描かない。


原作は志野を見ると「その」女性に会いたくなる、とする。

立原正秋の本では、女性の肌を白磁に例え「君はいびつな白磁だ」などと言っちゃったりする(立原ファンの方許されよ)…それを連想した。

また、娘である乙羽とも情交してしまうのである。


新藤脚本は、森と乙羽の親の喪失感をテーマにしたせいか、この情交は無い。また、志野茶碗を割るのは嫉妬に狂った杉村なのだが、原作では乙羽が「母の美しさ」を保つために、あるいは森の周りから自分たちを拭い去るために割るのである。


森と小暮が出会った茶会は、杉村が勝手に「工作」したお見合いだったが、原作では(厳密に言うと続編の『波千鳥』)この相手と結婚するのだ。新藤脚本では大磯の海岸ではっきり分かれさせる。


原作があるからこそ脚本が書けるので、原作と脚本を比較することはアンフェアだろうが、なかなか難しい問題を孕んでいる。


結果として、???な作品ではないかと思う。

森雅之はこの時実年齢42歳である。それが20歳代半ばの独身男性を演じている。やや無理がある。但し乙羽信子29歳、それにしてはとても愛らしい。


永井正敏は『映畫読本 森雅之』(フィルムアート社)の中で当作品をこう評している。

「原作の持つとらえ難い魅力を画面に定着しきれておらず、鎌倉を舞台にした風俗劇に堕したうらみがある」

ただ彼は原作を「美男の茶の師匠(森雅之)に思いを寄せる三人の女性たち」と言っていて、たいへんな勘違いをしている。茶の師匠は森雅之の父親でありすでに死んでいる清水将夫である。彼は原作も作品も知らないのかもしれない。


1953年大映

監督吉村公三郎

脚本新藤金兼人

撮影宮川一夫

音楽伊福部昭


出演小暮実千代、乙羽信子、杉村春子、森雅之


備考 この作品には1969年大映増村保造監督作品もある。