今年の当映画祭には大きな変化がいくつかあった。
個人的な変化としては、カフェカウンターからサンペレグリノが消えたこと。いつもサンペレグリノを飲みながら映画を観るのがこの映画祭の習わしだったため大変驚いた。カフェカウンターの人に聞くとビンであるためで、今年からペットボトルになったとのことで、それはSAN BENEDETTO というブランドでベネチアのスコルゼで採水したものだった。
しかし、サンペレグリノはスポンサーからも降りたようで、サンペレグリノのCFが上映されることはなかった。モノクロームのセンスのいいCFで好きなもののひとつだったため残念だった。
もうひとつの変化は昨年にも兆しがあったが、観客の減少である。
ゴールデンウィークに開催されながらも毎回多くの観客を集めたことは事実であるが、この観客の減少を分析することになかなか難しい。
2010年以降のイタリアの経済的な苦境による作品の小型化が言われるかもしれないが、元々それほど大型の作品があったわけではなく、またそれが魅力だったわけだからその推測は当たらないだろう。しかし映画製作に対する助成金が減少しているのは事実である。
例えばジョゼッペ・ピッチョーニ監督の『赤鉛筆、青鉛筆』だが、『もうひとつの世界』『ぼくの瞳の光』『ジュリアは夕べに出かけない』を出してきた監督にしては掘り下げが物足りないものだった。
高校の移民・貧困・保護者遺棄などを扱っており、マルガリータ・ブイも出演している(彼女はここ数年学校及び教育に関する作品への出演が多い)だけに惜しい。
フランチェスカ・コメンチーニ監督は女性の視線ですぐれた作品を作ってきた人で、ベルルスコーニのセックススキャンダルの時に退陣を求める女性ネットワークをいち早く作ったことでも知られるが、今回の『ふたりの特別な一日』はなかなかの佳作である。
経済的な不況やイタリアの男性中心社会が若い人に、そして若い女性にどのような影を落とすかを慎重にそして鮮明に描き出している。そして「権力」のある政治家ばかりではなく、宗教家の存在も忘れない。
若い女性が搾取され(これは韓国芸能界でも見られた。芸能界を目指す女性と何らかの権力を持つ男性との間の非対等の関係である)、若い男性が隷属されることを表現し、報われない若さを訴えている。前半の家族の過敏な対応と、理解しがたい行動がそこで分かるのだが、無残に思う。
ただ、ラストに希望を見出すか、見出さないか、分かれるところだろう。
当映画祭の白眉はマルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督の『フォンターナ広場 イタリアの陰謀』であろう。イタリア現代史を自ら調査し精査し作品に作り上げた。そしてこの事件(1969年12月12日ミラノでの爆破テロリズム)の闇をあぶり出していく。現代においてもまだ事実が闇にある事件である。
カンヌでグランプリを獲った『リアリティー』は1回だけ特別上映された。
これは「ビッグブラサー」という世界52か国以上で放送されたテレビ番組を知らないと理解しにくいが、アンディ・ウォーホールが「世界中の人が15分ずつ有名になる」と予言した世界の「リアル」であり、悲しいコメディである。
「塀の中のジュリアスシーザー」に出演した殺人で終身刑を受けたアニエッロ・アレーナが出演しており、それは精神障がい者施策を含めたイタリアシステムの懐の深さを示して快い。(イタリアの刑務所劇団は100以上ある)
