『長い墓標の列』雑感 | leraのブログ

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『長い墓標の列』雑感

『長い墓標の列』は連想の舞台と言えた。

昭和12年に起きた矢内原事件は、矢内原教授が中央公論に発表した「国家の理想」が発端だが、ローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』から示唆を受け書いた植民政策の論文が危険視されたのである。マルクス理論から日本の植民政策を帝国主義的進出と断定したからである。さらに226事件を受けファシズム勢力の巨大化に警鐘を鳴らす『民族と平和』を岩波から出すがそれが発禁処分となる。

そして12月の経済学部教授会で「国家の理想」が問題となり、辞職に追い込まれる。最終講義は悲しみに包まれたと言う。そして司法処分がとられ何度も警視庁と検事局に呼び出されるが、個人誌「嘉信」を出し何度も発禁になったが平和のために黙することはなかった。

昭和13年に河合栄治郎教授事件が起きる。

法学部の右翼学生が『いのち』という機関誌を発刊し進歩派教授の攻撃を開始する。矢内原教授が追放され、大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎各教授らが検挙された後ターゲットは河合教授であった。その他には法学部の田中耕太郎、横田喜三郎、宮沢俊義、矢部貞治の諸教授であった。

『いのち』に激烈な中傷がされる。そこに開講の辞として「マルキストとして手を握りともに人民戦線として右翼に砲弾を打ちこまねばならぬ」と言ったと掲載さけるが全くのデマゴギーであった。(この部分は「長い墓標の列」に出てくる)

10月に右翼団体が大学批判講演会を行い陸軍中将建川美次が「マルキストとして手を握り…」を引用し真実化されていった。

その5日後に『ファシズム批判』『時局と自由主義』『改訂社会政策原理』『第二学生生活』が発禁処分となる。さらに安寧秩序を紊乱すると出版法違反に問われ、日本評論社長鈴木利貞とともに起訴される。

141月平賀譲総長の「平賀粛学」で休職処分にされる。理由は「学説は欠格ではないが、表現方法が欠格している」といったもの。そのとき「喧嘩両成敗」で休職処分にされたのが土方成美、本位田祥男各教授であった。

出版法違反の公判(石坂修一裁判長)は開始後ただちに傍聴禁止となるが、その時の弁護人は横浜事件の弁護を務めた海野晋吉であった。

そののち残っていた教授陣営も多くが職を辞し経済学部は壊滅に瀕する。

昭和塾の前身昭和研究会は昭和8年につくられた政策研究立案機関である。設立に参加したのは蠟山政道、尾崎秀美、相川春喜、三枝博音、船山信一、三木清らである。蠟山は河合と『学生思想問題』を共著で出し、尾崎はゾルゲ事件に連座する。相川、三枝、船山は唯物論研究会から、三木が獄死したのはあまりに有名。

研究会は近衛文麿のブレーンとして出発したが、近衛の宥和政策を理論的に代弁することを通じ軍部ファシズムに抵抗していく道を選んだ。

横浜事件の犠牲者たちは昭和塾のメンバー以外に、中央公論、改造社、岩波書店も含まれる。

そこから先の流れは誰にも止められない。だから城山を悪役視すべきではないのだ。学徒出陣が始まるのは昭和18年からである。

戦病死とは、死ぬ者と死なぬ者に分れる差別死に他ならない。皇室関係者は戦病死しないだろうし、財閥系上層部もそうだ。

丸山真男は東京帝国大学助教授の昭和19年に(懲戒)召集を受け二等兵で通した。戦病死しなかったのは奇跡だったかもしれない。

劇中で山名は戦争は人間がしたものだから、原因があり責任があるはずだと言う。長い墓標に対する切ない思いであり、ムダ死、犬死に対する哀切極まりない思いである。そして、利用され、使い捨てられた魂に対するレクイエムである。

しかしその報われない魂は再利用される。

靖国、英霊、国体、愛国、国家、国民…と再利用される。死者は言葉を持たないから再利用される。否、持たないのではなく言葉を奪われたのだ。そして、思想を奪われ、理想を奪われ、希望を奪われ、可能性を奪われ、愛を奪われたのだ。

無言館がある。

M.Kから言わせると画学生はいいと言う。

彼女は音楽学校出身であるが、作曲をしていなければ何も残っていない、と言う。

墓標は立てられるのか、墓標はどこにあるのか、墓標は立ててはいけないのではないか?

(データの誤りを防ぐために元号を用いた)