疎外、あるいは暴力の向かう先 | leraのブログ

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疎外、あるいは暴力の向かう先




 サンボマスターが今より少しだけマイナーだった頃、彼らの歌う歌詞には呪詛の言葉がちりばめられていた。彼らは若者をとりまくものを呪っていた。それは権威であり、経済システムであり、恋愛であり、女性であり、あるいは自分であった。


(やや俯瞰的に見ると情動の向かう先の経済システム化にある。権威の多く、例えば学校歴などは経済に組み込まれているし資本に独占されている観もある。恋愛や女性に関しても、性欲は経済システムに組み込まれていて、男性の発情期による性欲は「受験」で抑圧し出版物を含めた性産業の消費者と看做される。自分ですら消費者としての存在価値しかないし、賃労働と時間労働に関しては被搾取者であることに気づく。)





 その呪詛の言葉は、青年期によくある「満たされぬ思い」といったものとは違い、もっと卑近な、もっとシビアな、もっと実生活に直結するようなものに聞こえた。イメージではなく、リアルな呪いに聞こえたのだ。だからこの叫びには体が震える思いがした。




『苦役列車』の寛多も呪詛の言葉を吐く。


しかしそれは限られた周囲に向けられるのが常で、自分の居る階層をはずれることはない。彼はその呪詛の言葉が自分の人生の大いなる欠落から発せられたとしても、その方向が自分に向いていることに気付いているのだろうか?





 このことは人間関係の疎外を表している。


尊敬する者、愛する者、愛してくれる者に出逢わなかった不幸だ。ダブルスパイラルな差別構造(差別し差別される構造。差別の要素が複数多岐にわたるため)の中で、微細な階層化・階級化によって人間としての関係を保てないことからくる個あるいは孤からくる疎外であり、関係を結べない組織構造からくる孤立である。


 さらに近代資本主義は個人としての消費を目指し、共有・共用・循環利用を否定し続けた。それは相互扶助ですら敵視する。(過激なリバタリアン思想はその反動と言えなくもない)





 永山則夫の犯罪を思った時、何故凶弾の標的が警備員、タクシー運転手だったのかと思う。経済的利益としてはあまりに小さい。その凶行がおこなわれるとき彼は呪詛の言葉を吐いたのだろうか?それも吐けぬほど「無知」だったのではないか?これも人間関係の疎外を表している。




 彼は逮捕され拘禁されるが、それから呪詛の言葉を主に法廷で吐き始め、そして呪詛の言葉と訣別する地点までくる。その地点は彼が「ものごとを知る」ことで始まる。




 秋葉原事件の加害者もインターネットで呪詛の言葉を吐いたが、それはどこへ向かって吐かれた言葉なのだろう?人にではなくネットにではないのか?だから殺害対象者に現実感を感じなかったのではないか?これほど不幸な犯罪者はいないし、被害者もいない。


 坂口安吾は「悲しみにも現実感がなかった」と記したが、貧困ほど現実的なことはない。貧困は金銭的な貧困の以前に時間の貧困がある。自分で自由にならない時間の大きさが絶望的な貧困を確認させる。


 派遣労働で、交通費が自費で労働現場も毎日のように変わるという状態は、交通費分の労働時間の提供(無賃労働時間)、現場の事前確認の時間、現場への必要以上に早い到着の義務付けなど、時間の提供(時間の搾取)に他ならない。




 人間存在の異化、人間関係の疎外、それらが作り出す禍々しさは暗く深い。


そして、衝動的な悲鳴としての暴力が、本来なら連帯できる階層に向けられる悲惨。階級が、階層が見えていないのではないだろうか?あるいは階層そのものに気付いていないのか?





 映画『タクシードライバー』の主人公は暴力の対象を探していた。


 暴力の発露の理由、原因は分らない。ヴェトナム戦争の後遺症かもしれない。彼もディスコミュニケーションの陥穽にあり、人間関係の疎外の中にある。暴力の対象は非道な搾取者に向けられた。これはあきらかに階層が違う対象だった。ある意味「力」を象徴するものだ。立候補者そして搾取者。


 彼が階層意識があったかどうかは分らないし、絶対的に人助けで行われた行為ではないが、階層が違うという点で救いはある。




 全く救いはないが池田小事件も別階層に向けられた暴力だ。


 加害者の論理では、あの小学校の生徒が特別「力」のあるもの、自分の暴力行為と対峙するものだったのだ。そして対峙するほど強力なるが故に暴力発動の正統性も感じたのだ。




 ヒトは群れる動物である。群れを失うことはヒトの根源的なシステムのいくつかを失うのかもしれない。例えば自衛や自己制御といったシステムだ。それを失わせ、過度に競争させ、自己責任を押し付け、努力と自己犠牲を要求する。その主体こそが異なる階層であり、異なる階級なのだ。




 正統な暴力など存在しないと思うが、発動することを必然とはしないが暴力衝動の向かう先は搾取している異なる階層に向かうべきだ。


階層、階級が見えにくくなっているからこそ、そして同階層同階級で連帯しにくいからこそ、その見極めが自己防衛につながるのではないだろうか?



 そうやって思うと同階層・階級における連帯というものは歴史上あったのであろうか?大正デモクラシー時にまで遡及しないと見当らないかもしれない。