下手奥に仮設舞台が遠景に見える工夫がある。
コンスタンチンは文筆家になっている。マーシャは夫に飽きてコンスタンチンにつきまといマーシャの母親ポリーナもそれを応援している。マーシャは言う。
「ばかばかしい。望みなき片思いなんて、小説の中だけの話」そして「心の中に恋が生まれたとしても、追い払わなければ」と続ける。マーシャは恋にではなく実利に生きているのだ。実利と言っても金銭のことではない。心のベクトルの方向のことだ。ベクトルが無意味な方向へ向くことはばかばかしいことなのだ。
ニーナの「不幸」がコンスタンチンによって語られる。家出し、トリゴーリンと暮らし子どもが生まれ死に、トリゴーリンの愛が冷め、ひとりで売れない女優を続けている。そして、手紙が送られてきて「カモメ」と署名している。ニーナにとってのカモメはどのカモメなのか?自由としてのか、死んだそれか、あるいはこれから飛ぶのか?
家出して実家に入れないニーナが別荘にひとりでやってくる。コンスタンチンとの再会である。二人は泣き出す。
二人が会話するがニーナの言葉は変。ツルゲーネフの引用で「わたしはカモメ」と言う。その後何度か同じ言葉をはさむ。そしてコンスタンチンの変わらぬ愛の告白に「どうしてこんなことを言うのだろう」と疑義を示す。もうけして以前の同じ所に立てないのだ。
ニーナは舞台に残っているほうの舞台で、「懐かしい演劇」をし懐かしむ。見えないはずの舞台が郷愁として使われる。舞台をわらわないで、巧みな使い方だ。
その間他の役者は下手奥にそれぞれの姿勢をして位置している。客席に背を向けているものも多い。それは別の部屋に居る彼らを表しているとも思えるし、ニーナの記憶の中にある彼らにも見える。
ニーナは話し声から別室にいるトリゴーリンの存在に気づき、あわてて帰ろうとする。そして、なんとトリゴーリンへの愛着をコンスタンチンに言うのである。
「わたしが好きなのはあの人。燃えるように好きなの、死ぬほど好きなの」
それでいながらトリゴーリンをこう分析する。
「演劇を信じていなかった。わたしの夢をあざ笑ってばかりいた」
ニーナにとってコンスタンチンは過去の郷愁の中で見えているだけなのだ。そして、トリゴーリンでさえ過去の中で見えているだけなのだ。マーシャが過去を断ち切れないのと異なり、ニーナは過去を清算してしまったように見える。
トリゴーリンへの愛着も執着ではなく自分の感情の記憶にすぎない、だからコンスタンチンに言えるのである。コンスタンチンも過去の記憶にすぎず現実的な存在ではないからだ。時として郷愁に浸りセンチメンタルになりたい、そんな一瞬の休息だったのだ。
彼女はそのせりふの少し前でこう言う。
「肝心なのは耐える能力なの。自分の十字架を背負う力がなければいけない」
いま最も強い人、それがニーナだ。
トリゴーリンがコンスタンチンが撃ち落としたカモメをはく製にすることを依頼したらしく、ヤーコフがそれを示す。それは、なんと額装されたニーナがトリゴーリンに渡した手紙である。トリゴーリンはそれを見て「覚えていない! 覚えていないなあ!」と言う。額装された手紙のアイデアは、この演出による独創かどうかは分らないが、実にスマートである。ニーナの浮ついた意思が「はく製」となっているのだ。それを美しいと感じたトリゴーリンは、すでにその美しさを忘れている。もともとそれは美しい物ではなかっただけだ。
コンスタンチンが自殺し、ドルンがトリゴーリンにそっとそのことを告げる、と役者がみんな無表情に舞台前に集まってきて突然の終幕を伝える。
ニーナの強さに混乱し、コンスタンチンの無惨に混乱し、トリゴーリンの「覚えていない」に混乱し、マーシャの「嗜好」に混乱しているときに突然の幕。コンスタンチンの自殺より、こちらの方が事件。コンスタンチンの自殺の原因など考える暇がない。これだからチェーホフは観客への要求が過大だと言うのだ…
時間が経ってコンスタンチンの自殺の原因がうっすらと垣間見えた時、「全く別の快楽」があるのだろう。
ひとつの「かもめ」の舞台には、いろいろなカモメが出てくる。
また、いくつかの「かもめ」の舞台はそれぞれの「かもめ」であって同じではない。
原作:アントン・チェーホフ
訳:沼野充義
演出・台本:石見 舟
舞台監督・制作:辻 智之
2013年2月21日より24日まで
ART THEATERかもめ座 にて