映画『かぞくのくに』
太平洋戦争時、大日本帝国軍は戦争の目的を正当(正統)化するため「天皇の為(てんのうのおんため)」、「国のため」「郷土のため」という言葉(スローガンではない)を多くの市民に言わせた。故郷を「くに」と言う。その「くに」が国とどう関係があるのかは、言語歴史学の知見が無いので分からない。親しみのある「くに」を為政者が国家を「くに」と言わせたのではと邪推する。
その言葉に「郷土のため」を加えたのは、正当(正統)化の強化のために他ならない。市民にとって、天皇も国も直接的な関係性は無いが郷土は両親や兄弟姉妹や身内に直結する。誰よりも守りたいと思うはずである。
国家は国民を必要とし、市民は国家を必要としない。
国家は、市民を分断し、市民の自由を奪い、市民の行動を規制し、市民の生命与奪の権利さえもつ。本来故郷を「くに」と言っていたのなら、国家は「くに」ではない。だから映画の題名が「くに」なのである。
人々の最小単位である個人が集まり家族となり、それが集まったものが「くに」の最小単位のばずである。だから「かぞくのくに」というタイトルには大きな意味を感じた。
映画『紙屋悦子の青春』では、市民が犠牲を払おうとするとき「郷土のため」と言い合い、あたかも避けられない宿命にたいし諦念感を確認する言葉として使われていた。映画『GO!』では祖国祖国と言う朝鮮学校の先生に「祖国ってなんですか?」と質問する生徒が登場した。
幻想としての国というものの実体が痛感として残る作品である。
『ディアピョンヤン』のドキュメンタリー性を継続したいのか手持ちカメラでパンが多い。その効果は家族の内面を観ているように感じ取るところにある。しかし、あまりにテーマ、ストーリーがストレートで評論できる余地が少ない。強いて言えば「なにを撮るか」映画。しかしこれは批判ではない。なぜなら「なにを撮るか」物色していた訳ではないからだ。訴えたい、あるいは訴えられる時期になった(設定は1997年)からだ。
ここで思うのは国である。
非権力の国「かぞくのくに」があってもいいはずである。
監督・脚本:ヤン・ヨンヒ