言語表現の脆弱さを凌駕する表現としての身体表現 | leraのブログ

leraのブログ

自らの文章のアーカイブと考えている


 私が多感な頃、そして多くの映画を観ていた頃。突然フィクションに嫌悪を覚えドキュメント作品ばかりを追った事があった。

 2012年4月3日の朝日新聞夕刊の「終わりと始まり」で池澤夏樹が同じようなことを書いている。

 「映画も、ストーリーが邪魔をする。どれもみな作り物めいて見えて、それに自分の中の批評装置が反応するのが煩わしい」


 そして、「精神の奥にまっすぐ届く物が欲しい」と言い、ピナ・バウシュとの出会いを僥倖としている。そこにあるのは表現形態の究極としての身体表現であると思う。


 私は2012年3月8日にある人に次の内容の書簡を送っている。
 
 バレエ『マノン』は2009年の5月に観ています。英国ロイヤルバレエ団、ケネス・マクミラン振付。マノンはタマラ・ロホ、デグリューはカルロス・アコスタ、レスコーはホセ・マルタン。日記の感想は以下です。
「マノンとデグリューの顔づくりがすごい。カードゲームのシーンは単なるカードプレイで笑える。沼地のシーンは幻想的で美しい。アコスタの動きが流麗。ロホはさすがプリンシパル」


 引退したエトワール、マニュエル・ルグリは2002年に「ドン・キホーテ」を観ています。その時の感想は一言。「デュポン、ジロバールとスター揃い」


 ヴィム・ベンダース監督が舞踏家ピナ・バウシュ(Pina Bausch)を撮ったドキュメンタリー映画が、『pina』です。ベルリン映画祭、米アカデミー賞の受賞作品で、現在日本でも公開中です。


 私は歌舞伎が好きなのですが、舞踊がだめなんです。歌舞伎を観に行くと通し狂言ではないかぎり、必ず舞踊があり苦痛の時間でした。もともと子どもの時に日本舞踊を無理やり習わされた(藤間)というトラウマのせいかもしれませんが、第一に何を表現しているのか分らないので、日本舞踊を観て感動したということは全くないわけです。


 板東三津五郎がインタビューで以下のように述べており、やや舞踊に対する認識は変化しました。

「踊りは歌舞伎に疲れたお客様に休んでいただく目的と、劇を観て悲しい気持ちになった時に踊りを観ていただき楽しい気分で帰っていただくという目的があります。また、動きに全て意味があるわけではありません。軽い気持ちで観ていただければ」

 このことから、京舞などは別ですが、歌舞伎の合間の舞踊は確かに面白くはありませんが退屈ではなくなりました。


 身体表現としての舞踏を体験したのは、シルビィ・ギエムの「ボレロ」を2008年に観てからです。「何を表現しているのか」を推量する前に、動きに圧倒されました。観客に思考を許さない絶対的な空間の創造がそこにはあった訳です。それからすっかり身体表現としての「舞踏」に関心を持つようになりました。

 また、シルビィ・ギエムが被災地で舞ったということを聞き、さらに身体表現の可能性に気付いたわけです。これが言語だったらどうでしょう?どんな言語表現も語り尽くせない事象を身体表現のみが人に共感を与えられるという証左だと思いました。


 私がシルビィ・ギエムが被災地で舞ったということを知ったのは知人の歌人 にしかわしん の短歌からでした。彼は気が向くと歌を私に伝えてくれるのですが、その中に


 被災地にボレロを舞いしパリジェンヌ シルヴィ・ギエム 天女ならずや


 という歌があり、はじめて彼女が被災地で舞ったことを知ったのです。その時に人間存在の意味、そして身体表現の可能性について思ったのでした。


 その後、彼は次の歌を作っています。


 こぞの秋被災現地にパリジェンヌ舞いしボレロをとわに忘れじ
 いわき市のがれきの中にこぞの秋ボレロを舞いしパリジェンヌあり
 こぞの秋いわきし訪いしパリジェンヌががれきの中に舞いしボレロよ


 どうみても、彼もシルヴィに魅せられた一人です。それほど深い感銘を与えられる芸術表現は稀有だとも言えるでしょう。


 もともと私はオペラ、歌舞伎、文楽、落語、能が好きですので「言語表現」に拘る訳ですが、言語表現の脆弱さを凌駕する表現として身体表現があるように思われました。


 モダンダンスの大野一雄と生け花作家の中川幸夫のコラボレーションという、とんでもない表現に出会ったことも舞踊を見直す契機になったのかもしれません。車いすで踊る大野一雄の頭上から、ヘリコプターに乗った中川幸夫が無数の花弁を散らせた「作品」です。


 2010年の12月には日生劇場で「達陀」(だったん)を観ました。これは1967年に二世尾上松緑が振付けた「お水取り」を題材にした舞踊で、単に「舞踊」という言葉では表現できない、大変強い説得力と迫力を感じました。この時私の記した感想は「増殖坊主のタップダンス?」とやや諧謔的な表現を使っていますが、日本舞踊を観て感銘を受けた作品でした。


 今回のローザンヌで驚いたことは、ローザンヌは若い人が技術を見せるところなのでターンとジャンプが肝心と思っていた所、一位になった人はほとんどターンとジャンプを見せず「表現」に拘ったことでした。彼女のコンテンポラリーも素晴らしいと思いました。37回のローザンヌのコンテンポラリーはジョン・ノイマイヤー作品が課題だったのですが、その時のハンナ・オニール(ニュージーランド)を彷彿とさせました。