歌舞伎映画『女殺油地獄』 | leraのブログ

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東劇では16日から先行上映していたので、その期間に見たかったのだが今日(23日)になってしまった。この日は一般上映と同じ日。



 映画が始まって驚いたのは、当然なのかもしれないが、観客の居る歌舞伎座なのだ。



 仁左衛門の与兵衛はとにかくスゴイの一言である。



 与兵衛が遊びの金に手形を切っていて、額面と実際に借りた金とが違うので、かなり無理していることが分かる。その時、私も25日の引き落としがその日が土曜日なので24日になり、それだったら残高不足になると思い映画が終わるのが18時、それからどうにかしなければ、と考えたので忘れられない映画になった。



 私は昭和59年4月の玉三郎とのビデオを持っていて、それ以来の「マニア」だが、一昨年6月の歌舞伎座公演が映画になったのである。私は2009年6月5日に歌舞伎座の幕見で観ている。このとき「一世一代」と称しこれを限りに演じないと宣言している。

 想い出も、人生も、私の「歴史」も感じる舞台なのだ。



 三幕目の花道からの出が美しい。幕見では見られない世界だ。

 殺しのところは、哀願、不義の企み、殺意の瞬間、行為中の無我夢中さ、殺すことの興奮、やってしまったことへの驚き、そして身の哀れ、それらを台詞を一切使わず、目と表情だけで表現する。



 そして、花道でのハケ。

 この役は、けして仁左だけがやっている訳ではないし、若手も挑戦している。仁左も初役の時は20歳だったと言う。



 近松のスゴサなのか?

 孤独、哀しみ、疎外、ワイルドな資本主義、恩や情、それらがギュッと凝縮している。とにかく素晴らしい。



 市蔵、梅枝という好きな役者も出ているのだが、霞んでしまう。仁左のひとり舞台だ。殺した後、はだけた着物から露わになる脛ですら美しい。



 孝太郎はとてもいい。子どもに対する愛情を「死にたくない」という一言で表現する。

 かけた情が遺棄された時の無惨さ、それが油の中に沈んでいく。素晴らしい舞台だ。



 舞台を見なかった人が、映画だけ見てどう感じるかは想像もつかない。そして、音に対してはやや不満だ。三味線の、あの歌舞伎座に朗々と響き渡る様を表現しきれていないし、浄瑠璃も添え物のような音作りだ。



 仁左と同じ時代に生きる我々は、尭舜の民だ…もう、死んでもいい…



 舞台と映画の違い、映画の方がのめり込んでしまう。なぜなら自分独りで覗き見しているようだから、声を掛けようと思わないこと、後アップが多いため、冷静になれない。それは双眼鏡(オペラグラスなどという安直もなものではない)で見ているのとは違う。



 しかし、アップによってさらに美しさが増す役者なのだ。

 着物の着方、帯の締め方、無地の手拭の被り方、手に持つ物(油樽)、すべてが美しい。無惨を前提とした美しさだ。



 尭舜の民だと思う。

 いつ死んでもいい…



 ヨーロッパの映画祭に出典したら絶対話題になると思うのだが…



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