昨日の午後2時46分、東北各地では13年前の3月11日に発生した「東日本大震災」の、追悼行事が開催された。


東北の沿岸部では、遺族や地域の方々が、海に向かって手を合わせ黙祷を行う。




気仙沼ケーブルテレビネットワークの社長であり友人の濱田智氏へ連絡して、「今日の気仙沼の海の写真を送って欲しい」とお願いし、これらの気仙沼の写真を送っていただいた。


高台に出来た「気仙沼復興祈念公園」からの写真。

震災後に作られた、内湾の遠くに見えるのが気仙沼湾横断橋…全長1,344mの東北最大の斜張橋(吊り橋)とのこと。




あの日とはまったく違う、穏やかで静かな海が輝いていた。


13年という時間は、あの残酷で理不尽な悲劇さえも、少しずつ日常の暮らしの中に同化していくのかもしれない。


そして、前に進めたら…、そう思う。




2011年3月11日、自分は、ダイバーシティメディアの前身であるケーブルテレビ山形で、当時の斉藤健経営企画室長と応接室で打ち合わせをしていた。


2時46分、地震。

横揺れの振幅がすごく、立っていても何かにつかまっていなければならない。

出産を控えた櫻井朋花さんを床に座らせ、当時84歳になる高橋文夫社長に声をかけた。


その後、揺らぎが止まった瞬間に、会社内に呼びかけ、正面前の駐車場に全社員が避難する。


街は停電、携帯電話は繋がらず、信号の機能不全。


ケーブルテレビの幹線状況や、ムービーオンなどの様子が分からず、車で移動して直接確認する。


急に寒くなり、雪が降ってきた。


各地の地震の被害状況や津波の被害状況を、車内のテレビで把握する。





ダイバーシティメディアは自社発電機を活用し、徹夜で各地の様々な情報を収集する。



シネコンのムービーオンやまがたでは、停電の為に電子錠が掛からず、警備会社と連携をとり、スタッフが事務所に泊まることになる。




山形県庁には、翌朝まで電気が灯っていた。




自宅には、ローソクの灯りの中、弟家族が来ていて、皆でカップラーメンやおにぎりを食べる。




翌日の12日のお昼前に停電が復旧し、昼から「ケーブルテレビ山形・緊急地震特番」の放送を、生中継でスタートする。

スタジオに寄せられた情報を、リアルタイムで放送する。

地震の被害よりも、ケーブルテレビ局としての役割の、街の中の商品情報、ガソリンスタンド情報、入試情報、行政からのお知らせなどをお伝えしたのだ。



まだ、この段階では、母が前日から仙台市へ行き連絡がつかなかったので、スタッフ達が探しに行く。

幸にして、母は2ヶ所の避難場所を移動しており、小学校の保健室で待機していた所を保護することができた。

しかし、母の故郷である宮城県女川町出島は津波が押し寄せ、母の実家は流されてしまう。

あれから、13年目の春。
あの日の事は、まだ鮮明に覚えている。

しかし、その後に積み重ねられた出来事や、復興の歴史が、新たな未来を作り出しているような気がしている。



昨日のその時間、NHKでは、気仙沼の様子を映し出していた。


手を合わせて黙祷をする。




13年目のこの日、ダイバーシティメディアの制作班は、宮城県石巻市に取材に伺う。


震災遺構の門脇小学校を取材させていただく。




また、昨年他界された山形市長源寺の葦原正憲ご住職が始めた「認定NPO法人・被災地に届けたいお地蔵さんプロジェクト」


震災の2年後に、一基目のお地蔵さんを建立した場所も取材する。




ダイバーシティメディアの鈴木淳予ディレクターが、毎年被災地を訪れ、復興の軌跡を取材した番組「to Revive」


今回の取材の様子は、5月に放送される予定とのこと。




あの日、ご逝去された方々に心から哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げる。


これまでの日常が破壊され、多くを失った東日本大震災。


その後、各地では悲しみを超えて、多くの取り組みがなされている。


未来を少しでも良くなるために、今やれることに取り組んでいきたいと思うのである。