自分が15歳の高校1年生の時、父と母が夢に見たマイホームを、山形市のあさひ町に土地を求め建設した。
今から約50年前のことである。
父が、山形県議会議員に当選して一期目が終わる42歳頃だったと思う。
母にとっては、宮城県の女川町出島から、誰も知らない土地に嫁に来て、長い借家住まいを経て、やっと自分の家を持てたことは、喜びもひとしおだったと思う。
弟の和武は当時2歳で、この家で大人になった。
自分も、高校、大学、社会人、そして結婚し長男を得たのもこの家であった。
父と母や、家族の思い出が至る所に染み込んでいる大好きな家である。
朝は、母が煎るコーヒーの香りがキッチンから溢れ出し、2階の階段あたりまで広がる。
父は、祖父母の月命日となると、仏壇でお経を唱えていた。
ほぼ毎日、自分の部屋の真下にある客間での、お客さんと父の話し声で、自分は目が覚めるのだ。
早い時は、朝の6時前からお客さんが来ていた。
そんな、裸一貫から、国会議員秘書、県議会議員、そして山形市長と、「一志如鉄」「分甘共苦」を信条として生き抜いた、父の人生が刻まれた家である。
どれだけ多くの人々が、この家を訪れただろう。
多い時だと、1日に数百人の時もあった。
自分が高校、大学時代は、この家が最も活気があり、皆が輝いていた時であった。
父が亡くなって20年以上が経ち、母もこの家を離れて10年が過ぎた。
その間、自分の長男の和康は、結婚して子を授かりアパートで暮らしているが、弟の和武とも相談し、母の了承を得て、この吉村家にとって大切な場所に、新たに家を建てることになったのである。
父と母にとっては直系の初孫の和康は、二人からとても可愛がられ、幼少時は様々な所に連れて行ってもらった。
彼がこの地に住むことに、天国の父も喜んでくれると思う。
5月7日(水)、里の宮「湯殿山神社」の渋谷宮司より執り行われた、この家への「報恩感謝の儀」と解体工事の「安全祈願祭」には、自分たち家族と、市村工務店の市村清勝会長と今野雄貴社長、井上工業の井上洋輔専務等が参加した。
渋谷宮司の祝詞には、父と母の歴史が込められ、幸せな家庭を築いたこと、そして時が経ち、この家が一つの役割を終えたことへの感謝が溢れていた。
自分もだが、参加した家族は、心が揺れ、涙が溢れ出す。
その後、参加者が、玉串を奉奠する。
ここまで、自分たちを育てていただいたことへ、感謝の気持ちを込めて、また、解体工事の安全祈願を込めて、玉串を捧げる。
祭礼の後、渋谷宮司は、父との思い出を語り出す。
湯殿山神社の遷座、そして神社奉賛会の働きなどを、ひとつひとつの出来事を思い出し、噛み締めながら話してくださったのである。
その後、渋谷宮司は、すべての部屋を回ってくださり、お祓いをしてくださった。
心より、感謝と御礼を申し上げたい。
自分が住んでいた部屋の窓からの眺めは、あの頃とまったく変わっていない。
千歳山と山形県庁が見える。
瞼を閉じれば、この家での様々な思い出が蘇る。
万感の思いを込めて、自分たち家族が暮らした父と母の家、通称「煉瓦の家」に“ありがとう”と、“さよなら”を伝えたのであった。