令和5年5月5日午前8時33分、長源寺の31世重興、慈眼25世である葦原正憲ご住職がご遷化された。


享年84歳。


祖父萬五郎の代に、東置賜郡川西町の玉庭から山形市の七日町に引っ越し、暮らしていた吉村家。


それまで、吉村家の先祖を弔っていただいたのが川西町玉庭の普済寺。


本家も自宅から近い市内の長源寺に墓を移設・建立され、自分も父が次男で分家であった為、父の逝去の際に長源寺に新たに墓を建立したのである。




長源寺は、鳥居忠政公が平藩(現いわき市)の藩主の時に、父である元忠の菩提を弔う為に、慶長7年(1602年)に創建された。


その後、忠政公が山形藩に移封され、長源寺もそれに従い、山形藩主の鳥居忠政公の菩提寺とされた。


また、戊辰戦争の折には、京都に居た藩主の水野忠精に代わり、家老である水野元宣が敗戦のすべての責任を負い、長源寺にて処刑される。

自らの死を賭し、他へは寛大な処置を賜るよう嘆願した文武に優れた若武者は、若干27歳であった。




長源寺は、鳥居忠政公や水野元宣公などの墓碑が建立され、山形市を形づくる歴史の本流を、400年に渡って見守ってきた由緒ある寺院である。




(父の仏壇の前で、葦原ご住職と母と一緒に)


自分の父である吉村和夫は、通称「寺内」と呼ばれた借家に、山形警察署長であった父萬五郎と母ウタ、長兄の敏夫ら兄弟と共に暮らしていた。


中学校(今の山形南高校の前身の山形第二中学校)の時に、萬五郎が病で亡くなる。


その時から、ウタは長源寺に通ったらしい。

川西のお寺が曹洞宗ということもあり、近くの大きな曹洞宗の寺院・長源寺の葦原正憲さんのお父上である前住職から、盆暮れに自宅にお参りにきていただいていたそうである。


そこに随行され、先代が亡くなられてからは、若住職としてお参りしてくださったのが葦原正憲ご住職だったと、父は生前自分に語ってくれた。


そう考えると、葦原家と吉村家は70年に渡って、お付き合いをさせていただいているのだ。


遷化された翌日の5月6日、長源寺に伺い、奥様と若住職の憲義さんに弔意を述べた後、しばらくお会いできていなかった葦原ご住職のご尊顔に拝した。


万感の想いが溢れ出した。

隣には、ご長女の葦原恵さんがいらっしゃった。


法衣を纏って横になられている葦原ご住職は、生前と変わらぬお姿だった。

そして、やっぱり、法衣がとても似合うと思った。





1992年には、ケーブルテレビ山形(現在のダイバーシティメディア)を設立した際に、「情報の遅れは、地域を過疎化してしまう」「山形県の情報格差を是正し、日本の陸の孤島を返上する」という趣旨に賛同され、葦原ご住職からは、株主、監査役としてご参加いただいた。


実はその数年前に、1986年、鹿野道彦衆議院議員の青年部「2010年の会」を設立した際に、葦原さんは初代会長として、自分は事務局次長として、いつもご一緒させていただき、とても親しくさせていただいたのである。


そんなこともあり、父が山形市長選挙に立候補する際は、様々なご相談をさせていただき、多くのことを学ばせていただいた。


また、2010年、東映の当時の村松取締役営業部長より、東映アニメーションで制作した映画「ブッダ」の普及をお願いされた時は、全国の曹洞宗の関係寺院にキャンペーンを展開していただいた。


葦原ご住職は、曹洞宗の中では宗務会議員として重責を歴任し、駒沢大学や東北福祉大学の理事長として教育面にも力を注がれてこられた。


東日本大震災後は、「お地蔵さんプロジェクト」を立ち上げ、被災者の心を癒し困難を乗り越える事業を、被災各地で展開された。




5月16日(火)は、長源寺本堂にて密葬が執り行われ、柴田さん、金山さん、逸見さんなど、自分たち檀家護持会の役員は、受付や下足番などお手伝いをさせていただく。

自分は山門差配人として、長源寺の正門で、参列者のお出迎えの役割を担った。



今回の密葬は、曹洞宗や仏教関係者、ご親戚、寺院の檀家役員と、近親者にて執り行われた。


来年、本葬が執り行われるとのこと。



この日は、空は驚くほど晴れ渡り、いつも笑顔で周囲を照らしてくださった、泰心正憲大和尚のご生涯に相応しい日となったのである。


葦原正憲ご住職のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


合掌。