4月17日(日)、ホテルメトロポリタン山形にて、山形交響楽団創立50周年記念祝賀会が開催された。


1972年、東北地方で初めてで、全国では14番目のプロ・オーケストラが、山形県に誕生した。


その前年の1971年頃から、現在の創立名誉指揮者である村上千秋さんが、地元の多くの方々に、交響楽団の設立を呼びかけていたのである。




自分が、村川千秋さんを知ったのは、中学生の頃である。

なので、50年前。


自分の父が、村川千秋さんの山形南高校の1学年先輩であり、当時、山形市緑町の埋立地区に借家を借りて暮らしていた父のところに、「交響楽団を支援して欲しい」と、相談に来られていた。


父が昭和6年の4月生まれ、村川さんが昭和8年の1月生まれ。


1971年の統一地方選挙で、父は山形南高校卒業生として初めて県議会議員に初当選したのであった。

39歳の時である。


村川さんが自宅に来られたのは、その翌年あたりの頃の出来事であったと記憶している。


自分はまだ中学生だったが、狭い一軒家だったので、父とお客さんが話している内容はどこにいても聞こえたし、父は「この人は、今度こんなことをされるんだぞ!凄い人なんだ!よく覚えておきなさい!」と、まだ何も分からない自分に言うのが常であった。

そんな時は、自分は目を輝かせて、その人を見上げたのであった。


初めて山形交響楽団の演奏を、山形県民会館で聴いたのは、1974年頃だったと思う。

同級生の女の子が、指揮者の村川千秋さんに花束を渡していた。


それから20年が経ち、ケーブルテレビ山形の番組では、村川千秋さんの主宰する「キラキラ会」を取材したり特集を組んだり、娘さんの村川千尋さんとコラボレーションしたり、多くの繋がりが重なっていった。


そして、自分が5年前に山形交響楽協会に理事として参加させていただき、更なるご縁ができたのである。






5年前の2017年の12月13日、パレスグランデールで山形交響楽団45周年記念演奏会が行われた時の写真である。


コロナ禍前なので、多くの方々が集まられた。


村川千秋さんの弟さんであるYMF山形国際ムービーフェスティバルの村川透審査委員長や、当時のマエストロの飯森範親さんもいらっしゃった。




昨夜は、コロナ禍の中での祝賀会で、細心の注意を払い、感染対策を徹底して開催に漕ぎ着けたと、園部稔理事長が話されていた。

祝賀会は、約100名程度の参加者であった。



三井嬉子会長は、創立50周年という歳月に触れ、歴代の歴史と伝統を繋いで来られた皆さんに敬意と感謝を述べられ、その節目の時に、自分がこの場にいることを誇りに思うと話された。




村川千秋創立名誉指揮者は、50周年なんだから、あと50年続けたら、山形は「ウィーン」になる!と話され、乾杯のご発声と続けられた。

同じテーブルには、ヴァイオリンの今井東子さん、首席テューバの久保和憲さんと、ご一緒させていただいた。



山形県の吉村美栄子知事、山形市の佐藤孝弘市長、山形銀行の長谷川吉茂頭取も、祝辞を述べられ、さらには阪哲朗常任指揮者の挨拶、山形交響楽団の首席を中心とした弦楽四重奏が、ハイドンの「皇帝」を奏でたのである。




村川千秋さんに、祝賀会がお開きになった後で、直接お祝いの言葉を申し上げた。


村川さんは、父のことにも触れ、山形南高校の仲間たちからも設立の頃はとても支援いただいたと話されていた。


帰路、父が山形市長時代に建設された、ペデストリアンデッキを歩きながら、亡き父と村上さんの50年前の事を思い出していた。


春の夜の香り、心に沁みた夜となったのである。


山形交響楽団50周年おめでとうございます。

そして、300回の定期演奏会と大成功と、この日の祝賀会の盛会を、心よりお祝い申し上げる。


西濱秀樹専務や事務局の皆さん、そして団員の皆さんの献身的な活動と、音楽文化をこよなく愛する情熱に、衷心より敬意を表させていただきたい。