先日、高橋昌彦秘書室次長と、丸亀製麺で夕食をとった。

最近は、仕事の合間に、一緒に食事をとる機会が多くなっている。


自分と高橋昌彦氏は、山形市立第一中学校で同級生。

中学2年生の頃から、フォークソングを聴き、ギターを弾き始める。


今から48年前のことだ。


その後、自分は山形南高校、高橋昌彦氏は山形東高へ進み、高校は別々になったが、その時から「季節風」というバンドを結成する。




当時は、ジーパンにポロシャツ、髪型も最初の頃は長髪だった気がする。


今とは、まるで違う体型で、自分は57キロ。

しかし、昌彦氏の優しい笑顔は変わらない。


フォークソングを歌う人は、長髪が決まりだった。

井上揚水、吉田拓郎、南こうせつ、伊勢正三…。


その後、矢沢永吉やクールスの登場で、自分の髪型はリーゼントになった。


そして大学時代は、ニューミュージックと言われるサザンオールスターズやディスコソングの影響で、パーマ全盛期となったのだ。




高校時代の「季節風」のライブ風景。


一年に2回、春と秋にライブコンサートを行った。

自作のオリジナル曲や、風やかぐや姫のカバー曲などを歌い、多くの方々が聴きに来てくれた。


当時は、高校生の単独ライブは、珍しく、自分たちと山形中央高校のバンドくらいだったと思う。


その後、自分が東海大学へ、昌彦氏は山形大学工学部へと進学し、ギターを合わせることはまったくなかった。

彼は大阪のダーバンに進んだ後、東京で働き、自分は山形に戻り、就職し、その後起業した。


そして、お互いが55歳になった頃、昌彦氏は故郷山形に戻り、また一緒に働き出すことになる。




今では、毎日顔を合わせて、ダイバーシティメディアグループを通して、山形の四季の物語の素晴らしさや、歴史と風土に培った芸術文化を掘り起こし発信している。


そう言えば、中学2年生当時の最初のオリジナル曲は、「月曜日の朝」という馬見ヶ崎川原の堤防を歩きながら、14歳の思いを綴った曲である。
2曲目は「雨の町」という曲で、中心商店街の七日町が、雨の日にとても情緒的に見えたことを曲にしている。

今考えると、どちらも、この山形の街にフォーカスしている。

48年経っても、原点は変わらず、「山形の街が好き」から発しているのだ。


仲間たちとこの街で出会い、今も同じ船に乗っていることは、とても幸せなことだと思う。

最後の「季節風」のファイナルコンサートは、1978年の春だった。

最後の曲は「あの唄はもう唄わないのですか」で、アンコール曲は「お前だけが」だったと記憶している。

あれから44年目の春、また、山形の街には花が咲き始めるのだ。